Petites meditations Part 2

 古代イスラエルの少年イスマエルは今日5歳になりました。ユダヤ教の伝統に従って彼の教育が始まるので、イスマエルは律法学者ラビ・ヤコブに教えを請うために会堂に行きました。すぐ「アル・クッタブ」という不思議な式が始まりました。ラビ・ヤコブはきれいな板を用意し、蜂蜜を使ってヘブライ語のアルファベットを一文字ずつ書きました。 そしてイスマエルにそれらをなめるように指示しました。「このようにすると律法の言葉はあなたの口に心地よいでしょう。 蜂蜜をなめるとそれぞれの文字の形を舌が覚えるので、いつか手でそれらを書くことができる」とラビ・ヤコブは説明しました。

 蜂蜜が大好きなイスマエルは、この教育方法をとても好きになりました。しかし、すぐに蜂蜜の食べ過ぎで吐き気をもよおしました。それを見ていたラビは彼に言いました「神様の言葉はとても良い言葉で、本当に美味 しいものですが、食べ過ぎてはいけません。少しずつ時間をかけて味わう必要があります」と。最初、ラビ・ヤコブはアルファベットの文字を板に順番に書きました。しかし、日が経つにつれて、イスマエルがよりよく暗記できるように律法に必要な単語を混ぜました。イスマエルは蜂蜜が大好きだったので、ラビの訓練方法がとても気に入っていました。この勉強方法に慣れてくるに従い、イスマエルは律法の文字を学ぶよりも、文字を書いている蜂蜜にばかりに気を取られ始めました。

 ラビ・ヤコブは文字を教えながら、聖書の言葉の意味も真剣にイスマエルに教えていました。「ダビデの詩編の中で神は次のように書いています。『わたしは岩から蜜を滴らせて、あなたを飽かせるであろう(参照:詩編81, 17)と。岩が神ご自身ですが滴る蜂蜜は神の口から出るみ言葉です、それを一言ひとこと味わう必要があります。私たちそれを聞かないように蛇であるサタンと悪霊たちが邪魔をし、誘惑をしていますが、彼らを追い出す方法があります。ヘビは蜂蜜が大嫌いなので、蜂蜜には絶対に近寄らないのです。そういう訳で、私たちは神の蜂蜜の言葉をずっと聞いて、黙想し、思い出し、サタンと悪霊どもに対してとても強いです」とラビ・ヤコブは説明しました。イスマエルはヘビが大嫌いです。ラビ・ヤコブの説明を理解して、これらの危険なヘビから自分の身を完全に守るためにイスマエルはもっと蜂蜜を食べることに決めました。その日、イスマエルは、改めて蜂蜜はとても役に立つことを悟りました。


 ラビ・ヤコブの話と教えを聞くたびにイスマエルは蜂蜜への渇きが深くなりました。たとえば、ラビ・ヤコブは「神の仰せを味わえば、自分の口に蜜より甘い」(参照:詩編119,103)ということを理解するよりも、イスマエルは「イスラエルの国は乳と蜜の流れるこの土地だ」(参照:申命記6,3)ということについて、考える方がいいと思っていました。イスマエルが蜂蜜を食べ過ぎていることに気付いたラビ・ヤコブはすぐに蜂蜜で文字を書く勉強をやめて、難しい文字の書き方を教え始めました。「聖書は正しいことを教えています。ですから、イスマエル君良く聞きなさい。『蜂蜜を食べ過ぎればうまさは失われる。名誉を追い求めれば名誉は失われる。』(参照:箴言25, 27)」とラビ・ヤコブはイスマエルに納得させようとしました。しかし、その日から、イスマエルにとって、会堂の勉強が今までよりも面白くない、お腹を満たすものでないことを感じました。幸いなことに、眠るとイスマエルは蜂蜜の幻の世界を夢で見ることができました。

 楽しいときは、新しいことを学ぶのは簡単です。しかし、良いことをやり過ぎないように気をつけなければなりません。 適切なバランスを見つけるのは必ずしも簡単ではありません。ですから、私たちには良いものだけ、自分自身詰め込むことがないように、最も重要なことに目を向けることを教えてくれるラビ・ヤコブのようなガイドも必要です。甘い生活を望んでも構いませんが真面目にそれを生きていきましょう。

**************************************************

 愛の奇跡 

その日は午後6時に既に夕焼けになっていました。悲しみに打ちひしがれた若い母親が病院の廊下で耐えられない悲しみに襲われて大声で泣いていました。彼女の生きている世界は崩れおちてしまいました。彼女は2年前に夫を交通事故で亡くしました。そして今、彼女が一人で育て、愛情を込めて世話していた5歳のひとり息子白血病で亡くなったばかりでした。息子の担当をしていた看護師は彼女を慰めようとしましたが全く無駄でした。母親の絶望はあまりにも大きかったので看護師の慰めの言葉はむしろ彼女の苦痛を増大させただけでした。

息子の病室に隣接する廊下に、悲しそうな5歳の男の子が立っていました。彼は、頭を下げたまま動かず、立ったまま、暗くなった廊下の床を見つめていました。看護師は彼を指差しながら、今しがた息子を亡くした母親に「廊下に立っているあの小さな男の子を見て」と言いました。母親は涙を流しながら廊下に一人で立っているその子を見つめました。看護師は「あの子の話を聞いて…」と言いました。

 「実は、あの小さな男の子の母親は若いウクライナ人で、先週ここに緊急で運ばれてきました。戦争で家族全員を亡くしたこの親子は着のみ着のままで、4カ月前に私たちの国に亡命して来ました。彼らはずっと避難所から避難所へ転々と移動して暮らしていました。彼らはこの国には誰も知り合いがいません。あの小さな男の子は毎日この病院に来て、朝から晩まで廊下で立ったり座ったりしながら、母親の回復するのを待っていました。しかし、彼の母親はつい先ほど亡なりました。彼はそれをまだ知りません。彼はひとりぼっちになりました。あの少年にはもう慰めてくれる人は居ませんし、帰る家さえもありません」と看護師は気の毒そうに説明しました。

悲しみに暮れていた母親は泣き止み、この看護師の話に注意深く耳を傾けていました。 看護師は話を続けました。「私は今からあの小さな男の子に、あなたは今、一人ぼっちになりました。もうお母さんはいません。天国に旅立ちました」ということを伝えなければなりません。看護師は話をやめ懇願するように側に居る母親を見つめてためらいがちに「母親であるあなたなら、きっと私よりも、あの子にこのことを説明できるでしょうね。でも、私はあなたにそれをお願いする勇気はありません」と言いました。これを聞いた母親は立ち上がって、涙を流しながら、廊下に一人で立っている子供を強く抱きしめました。


 その時愛の奇跡が起きたのです。一人の母親が新しい息子を見つけ、一人の息子が新しい母親を見つけました。病院の廊下の暗闇の中で、この母親とこの孤独な男の子は、お互いに光と慰めになりました。 その後、正式にこの小さな男の子はこの母親の新しい息子に迎えられました。そして、母親の心はこの新しい息子を親の愛でいっぱいに満たし、二人は幸せに暮らしました。

 そして、同じようなもう一つの大きな愛の奇跡があります。母の心をもって私たちを限りなく愛してくださる神は、私たちにご自分の子となる資格を与えました(参照:ヨハネ1, 12、エフェソ1,5、ローマ 8,23)。確かに、私たちは神を「父」と呼びます。そして出来るだけ、心を尽くし、魂を尽くし、体と全力を尽くして神をはじめ、兄弟姉妹となった全ての人を愛そうとします。これこそ大きな「愛の奇跡」のではないでしょうか。

*************************************************

青いバラ

アントワネットは、人が望むすべての資質を備えた若い美しい姫君でした。 彼女の青く深い瞳は愛らしい顔を一層可愛く照らし、彼女の澄んだ歌声は皆称賛されました。アントワネットの母親は彼女が生まれたときに亡くなったので、父親はアントワネットが望むものを何でも全て与えて育てました。ただ、姫には大きな欠点が一つありました。というのもアントワネットは、自分を完璧な人間だと思い込んでいたので、自分の周りのすべてのものにも完璧であるように命令していたのです。 彼女は、ケーキを飾っているイチゴがすべて同じ大きさと色でなければ、躊躇せずにケーキを捨てました。やがて彼女が成長してお年頃になり父親は姫に結婚するよう主張しましたが、アントワネット求婚者の誰にも好意を持てませんでした。彼女は誰であろうと紹介された若者をすべて拒否しました。しかし ある日、父親の願いに応えて、姫は自分に青いバラを持って来た人と結婚するとはっきり約束しました。

 父親は青いバラが存在しないことをよく知っていたので、この決定には満足していませんでした。しかし、大好きなアントワネットの要求に応じて、王は若い姫に青いバラを持ってきた者にはその日のうちに結婚させると国中におふれを出しました。 多くの人がこのバラを探しに行きましたが、期待は裏切られ、自分たちの捜索を断念しました。最後までバラを探し続けたのは 2人の求婚者だけでした。そのうちの一人は裕福な商人でした。彼はこの目的のために、ある策略を使って青いバラを作りました。彼は白いバラを青い液体に浸すと、バラは希望の色に染まりました。とても嬉しくて、彼は宮殿に急いで行き、姫にこの青いバラを見せたら、彼女と直ぐに結婚できると思いました。王はその花を見て大喜びし、娘にこう言いました。「あなたが欲しかった青いバラをこの人が持ってきました。さあ、すぐ結婚式の準備をしましょう」と。しかし、アントワネットはバラの計略を察して、父親にこう答えました。「このバラは染めてあるので青いだけです。決して本物ではありません」と言って、ずる賢い求婚者を厳しく咎めました

 2番目の求婚者は、珍しい宝石を求める有名な兵士でした。彼は非常に大きな青いサファイアを持っていました。彼はそれを宝石商に持って行き、バラの形にカットしてもらいました。王はその宝石を見たとき、それが素晴らしいものであると感じ、娘はこの兵士と結婚することに同意するだろうと確信していました。王は彼女を迎えに行き、「約束は守らなければなりません。あなたが欲しかった青いバラを持って来た人がいます。私たちは結婚式の準備をします」と叫びました。しかし、バラを見た途端、姫は叫びました。「それは花じゃないわ。これはただの花の形にカットされたサファイアだということが解りませんか。 私は本物の青いバラを持って来てくれるをいつまでも待っています」と言って自分の部屋に閉じこもりました。

 ある夏の夜、姫が夕日を眺めていると、詩人の歌声が聞こえました。彼は柔らかく調和のとれた声を持つハンサムな青年でした。姫は彼に出会い、彼も姫を見て二人とも恋におちました。姫は寂しくなってしまいました。というのも、この青年は青いバラを持っていないからです。しかし青年は姫に言いました。「姫君さま、ご安心ください。青いバラはどこにでもあります」と。
翌日、彼は白いバラを持って宮殿に来ました。王は娘を呼んでこう言いました。「娘よ、青いバラを見つけたと主張する詩人がここにいます」。姫はバラを見て、叫びました。「まぁ、この青いバラは何て美しいのでしょう。私は喜んでこの青年と結婚します」と宣言しました。王も宮殿の執事たちも非常に驚きました。

 「愛は青いです」とフランスの有名な歌が伝えます。愛は人を盲目にし、道徳を和らげると言われます。この物語は間違いなくそれを証明しています。「愛には偽りがあってはなりません」(参照:ローマ12,9)と聖書が教えています。愛は自由にします。そして自由を現わす色も青です。愛と自由があれば人生はバラ色になるに違いありませんね!

************************************************

良い運転、良いふるまい

 アントニオという若者が学年末に最後の試験を受けようとしていました。彼は父がかつて何回も言ったことを思い巡らしていました。確かに、ある日、父親は彼に言いました「アントニオ、もし卒業したら、世界で一番欲しい贈り物をあげよう」と。それを聞いたアントニオはとても幸せでした。父親がどんな贈り物について話しているのか、心の奥底で解っていたからです。それは、以前に何度も賞賛していた新しい車でした。アントニオの父親はとても熱心なキリスト者であったので、息子の成功のためによく祈っていましたし、また聖書の朗読から希望と励みを探し求める人でした。しかし、アントニオは他の事で忙しく、友だちと自分の自由な生活以外の祈りや聖書について興味を持っていませんでした。

 しかし、真面目な青年としてアントニオは試験の日に備えて一生懸命に勉強しました。そして結果発表の日に、彼にとって良い結果発表があったので アントニオは急いで自分の家に帰りました。「お父さん、お父さん、見事に成功したよ。本当に試験の結果が良かったので約束のご褒美をください」と興奮して叫びました。 微笑みながらアントニオの父は答えました。「分かった、分かった、落ち着いて。せめて、明日まで待って」と。そして、翌朝、父親がアントニオを呼んで、こう言いました。「アントニオ約束どおり、ここにあなたに約束したサプライズがあります」と言いながら父親はアントニオに貴重な美しい聖書の本を手渡しました。

  アントニオはショックを受けてひどく失望しました。ショックを受けてひどく失望した彼は、聖書をカーペットの上に強く投げつけると、何も言わずにドアをバタンと閉めて立ち去りました。あちこち歩き回り時間が経って少し落ち着きを取り戻した彼は、サプライズの贈り物について父親から説明を受けようと思い家に帰りました。彼は静かにリビングルームに入りましたが、誰もいませんでした。 アントニオはカーペットの上に自分が投げた聖書がそのまま置かれているのを見ました。よく見ると聖書が開いていました。その聖書の開いたページの間に封筒が挟まっていました。アントニオはそれを拾い上げ、封筒を開けてみました。すると、中には車のキーと、次のように書かれた手紙が入っていました。「アントニオへ 車の保険を含めてすべての代金は支払いました。車はあなたの物です。そして試験の結果卒業おめでとう。私はあなたを自慢に思います。あなたを愛する父より」と。そして、手紙の下の方に次のように書かれていました。「ハンドルを握るときも、生活するときも、良い行いを保つために、やはり聖書のアドバイスに勝るものはありません。神があなたを祝福し、守ってくださいますように」と。

 それを読んで、恥ずかしくなったアントニオはひどく泣きました。ちょうどその時、父親が部屋に入って来ました。そしてアントニオを抱いて、優しく慰めました。アントニオもすすり泣きながら自分の悪い態度の赦しを願いながら、父親に感謝の気持ちを何回も伝えました。その日の晩、家族揃って、アントニオのために楽しい宴会が開かれました。

 ゆっくり考えずにすぐ行動する人は、必ず間違た態度を取ります。不満や怒りや無理解や無関心などがその人に襲いかかる時ついて聖書は良いアドバイスを与えます。「よく調べないうちに、とがめてはならない。まず、じっくり考え、その後に叱れ。よく聞かないうちに、答えてはならない(シラ書11, 7-8)と。日本のことわざによると石の上に三年座ることを勧めています。いずれにしても間違いを避け、面目を失うことを避けるために、焦らず冷静に対応することを学びましょう。これこそ真の知恵です。

************************************************

ラビのベン・ラヒム

有名なラビであるベン・ラヒムは、ある日、イエスのように振る舞おうと決心しました。彼はイチジクの木の下に座って教える代わりに、弟子たちを村の周りの短い散歩に連れて行きました。ラビとしての地位ゆえに、彼はお気に入りのロバに座り、弟子たちは徒歩でラビを追いかけました。彼らが小さな村に近づいた時、ラビのロバが皆によく聞こえるようなおならをしました。突然、ラビはロバから降りて踊り始め、大声で笑い出しました。 弟子たちはがっかりして顔を見合わせ、自分たちも笑っていいのか、真剣な表情のままでいるべきなのか解りませんでした。すると、ラビは神とその偉大な知恵を称賛し始めました。「主よ、あなたは無限の憐れみをもってなんと正しく、はっきりと語られる方であられるのでしょう」と繰り返して叫んでいました。

 弟子の一人が思い切って尋ねました。「先生、あなたに何が起こったのですか?」と。ベン・ラヒムはこう答えました。「親愛なる弟子たちよ、よく聞いてください。大好きなロバに座りながら私は安心して、こう思いました。『私はロバの上に堂々と座っていることが幸せです。大きくて美しいコートは私を暖かく包み、私の威厳を示しています。 弟子たちは私を取り囲み、できるだけ私の近くを小走りで歩きます。 彼らは私を尊敬し、愛し、時には私のロバの手綱を握る喜びを争っています。明らかに、私は愛されている人間です。地上で栄誉を受け、死んだら天使と全ての聖人の歓声を聞いて天国に入るでしょう』と。しかしその時、神のおかげで私のロバがおならをしました。これにより、高慢とプライドで満ちた私の考えに終止符が打たれ、もっと謙虚でなければならないと悟ることができました」と、ラビのベン・ラヒムは語りました。

  弟子たちの質問を待たずに、ラビは次の質問をしました。「ところで、あなたたちは私の話を聞いて何を学びましたか」と。ラビの教えをよく聞いていた一人の弟子は次のように答えました。「先生の話を聞いて、私は自分をりのままに受け入れることを学びました。絶望せずに自分の欠点を知ること、他人と自分を比べたり批判したり責めたりしないこと、それが人生を豊かにするものだと私は信じています」。別の弟子は次のように言いました。「先生の後ろを追いかけながら、私は先生のロバのペースと仲間たちのリズム合わせて歩くことの大切さを学びました。彼らの話に耳を傾け、彼らをありのままに受け入れ、完全に無条件に愛することを学びました」と話ました。また別の弟子はこう言いました。「私は賢くないかもしれませんが、歩きながら人々や周りの景色をよく見て、大自然の美しさと単純さを味わいました。お陰で、私は神に賛美と感謝を捧げることが楽しくなりました」と語りました。

 
他の弟子たちも同じように自分が発見したことや考え方の変化について述べました。弟子の答えを聞いたラビのベン・ラヒムはとても嬉しいでした。「私たちはよく似ていますね。とても近い者となりました。この一致を神が豊かに祝福してくださり、もっともっと親しく、互いに理解し、いつも助け合う者となりましょう。そして何よりも、私のロバから謙遜を学びましょう」とベン・ラヒムは微笑みながら言いました。

 日常の様々な出来事から人は生きることを学びます。人々との出会い、大自然の発見、笑いと涙、安らぎと苦労、何であろうと、すべては私たちの人間としての土台を造り上げます。聖書が教えている通り「人は独りであるのは良くない」(参考:創世記2,18)。今、カトリック教会のシノドスは特に「ともに歩む」ことを勧めています。互いに出会い、助け合い、理解し合って、同じ道を歩むことが、私たち心の豊かで謙遜な人にる唯一の方法だと私は信じています。

************************************************

サラームが探した石

 エジプト人のサラームは、アレクサンドリアの大図書館の近くに住んでいる貧しいユダヤ人でした。彼の唯一の楽しみは、本を読み、まだ知らなかったことを学び、発見するために毎日大図書館に行くことでした。大昔に この有名な大図書館は二度焼失しました。紀元前47年、ジュリアス・ シーザーの軍隊がアレクサンドリアの港で艦隊を焼き払い、火は倉庫に燃え広がり、この大図書館の一部が焼失してしまいました。また、西暦391年、キリスト教の皇帝テオドシウスは、異教徒の神殿や書物を対象とする布告を出し、キリスト教の狂信的な信者たちは、略奪した後、大図書館に火を放ちました。そして642年のサラームの時代に、2代カリフのオマルは、すべての世俗の本を燃やし、公衆浴場の薪として使用するように命じ大図書館の本はすべて燃やされてしまいました。 サラームはこの出来事に大きなショックを受け、食欲を失い睡眠も十分にとれなくなりました。

 サラームは眠っていなかったのですが、ある夜、蒔きとして燃やされた灰の中に多少なりとも無傷の本がないか確認してみることにしました。 彼のひらめきは大当たりでした。というのは、ランプの助けを借りて保存状態の良い一冊の本を見つけたからです。一見すると、その本の内容文は退屈で、面白くないものでした。 しかし、注意深く見ると、サラームはこの本が貴重であることに気づきました。なぜなら、その表紙の下に、手書きで賢者の石の秘密を含むいくつかの文章が走り書きされていたからです。この賢者の石はあらゆる金属を金に変える性質を持つことで良く知られていました。その石を見つけられる場所は「黒海の海岸」だと書かれていました。 黒海の海岸には、よく似た何千もの小石がありますが、賢者の石を見分ける方法は、石に触れて冷たい石は賢者の石ではない石、触るとまるで生きているかのようにとても暖かい石が賢者の石だ、と書かれていました。

 見つけた本の走り書きを読んで喜びの頂点に達したサラームは、すぐに自分のわずかな所有物を売り払いました。彼は1年間生活できるだけの金額を受け取ったうえで、すぐ黒海に向けて出発しました。 海のそばでサラームはテントを張りました。そして賢者の石を探し始めました。サラームは、持ち上げた小石に触って、もし冷たかったら、それを海の深みに投げ返しました。そうすることで彼は同じ石に何度も触れることを避けていました。このように、毎日、何時間も、サラームは辛抱強く小石を一つ、また一つ、そしてまた一つと持ち上げました。サラームは諦めずにこの課題を何週間も、何か月も自分に課し続け、小石を触ってみて、冷たければそれを海に投げ込みました。そうしている間に、丸一年が経ちましたが、彼は賢者の石を見つけることはできませんでした。


 しかし、ある晩、いつものように、サラームが小石を掴んで触れるととても暖かかったのです。しかし長い間に習慣となった、習慣の力は非常に強いものとなっていたので、サラームは何も考えずに、機械的にこのやっと見つけた賢者の石を海に投げ込んでしまいました。残念なことに、アッ!と、サラームがそれに気が付いた時はもう手遅れで、石を海の深みに投げ込んでしまった後でした。サラームは絶望して激しく泣きました。

  私たちの警戒心と頑固さにもかかわらず、習慣はしばしば私たちに意地悪な悪影響を及ぼします。気づいたときにはもう手遅れなので、私たちに残っているのは泣くための涙だけです。キリスト者である私たちにとって「賢者の石」は、すべてを金よりも貴重なものに変えることができる神の「無限の愛」です。この愛を見つける人の心は燃え上がり、その人も熱心になります。なぜなら「神は、焼き尽くす火です」(参照:ヘブライ12, 29)から。しかし習慣の力は非常に強いので、何も考えずに、機械的に私たちに神の愛を無視する危険性をはらでいます。ですから不注意によって自分の心から神の愛を追い出すことがないようにしましょう


**************************************************************

問題解決の手法

 偉大な禅師のチオアン先生は、僧院に来た若い弟子たちの指導を担当していました。 その中には、スーシという名前の弟子が、他の弟子たちを笑わせるために若いフォイン君をよくからかっていました。ある日、チオアン先生は 「フォイン君、あそこで瞑想しているスーシ君を見て、彼は誰に似ていると思いますか」と尋ねました。フォインはすぐに「そうですね、スーシ君は仏像に似ていると思います」と答えました。暫くしてから今度は、チオアン先生はスーシ君に「あそこで瞑想しているフォイン君を見て、彼は誰に似ていると思いますか」と尋ねると、スーシは即座に「あのように座っているフォイン君を見ていると、僕は牛の大きな糞を思い出します」と答えました。もちろん、彼の冗談を聞いた他の弟子たちはクスクスと笑いました。

 チオアン先生はスーシの突拍子もない答えを聞いて思わず皆に言いました。「スーシはこれほど識別力が乏しい状態で、いったいどうやって瞑想できるのだろうか。 瞑想が目標にしていることは、私たちの心の中にあるものと私たちの周りのものをハッキリと識別して理解することだと言うのに・・・。 人は自分の心の中にあるものが、目の前に現れるのです。フォインはスーシが仏陀に似ていると言ったので、それは彼の心の中に仏陀が存在していることを示しているのです。しかし、スーシが言ったように、もしフォインの内に牛の糞を見るなら、スーシの心の中にはいったい何があるか想像出来ますか?」。これを聞いて、若い弟子たちは皆大笑いをしました。スーシはとても恥ずかしくなり顔が真っ赤になりました。チオアン先生はスーシに罰として彼が反省するように一週間、僧院のトイレの掃除をするように命令しました。


 チオアン先生が数日間欠勤しなければならなくなったある日のこと、自分の代わりを務める人を選ぶために弟子たちを集めました。「私は今からあなたたちに問題を提示します。この問題を最初に解決した人に、私が不在中に私の代わりの役目を担ってもらいます」。そう言って先生は丸い机を部屋の中央に移動させました。そして、その上に1本の綺麗な赤いバラと珍しいデザインの磁器の巨大な花瓶を置きました。「さて、これが問題です。さぁ、どうしますか?」と先生は弟子たちに質問しました。弟子たちは、自分たちが今見ている物に当惑しているようでした。巨大な磁器の花瓶と1本の赤いバラの花の新鮮な優雅さそれらは何を表しているのでしょうか。 自分たちは何をすべきなのでしょうか・・・、この問題は何でしょうか・・・、先生は何を求めているのでしょうか・・・、弟子たちは色々な考えが走馬灯のように頭に浮かび、あぁでもない、こうでもないと迷っている間にゆき詰まり茫然として暫くの間、机の上に置かれた花と花瓶を見て固まっていました。しかし数分後、弟子の中で一番若いフォイン君が決然と立ち上がって机の上に置かれた花瓶を重そうに持ち上げてそっと床に置きました。するとチオアン先生は、待っていたかのように口を開きました。「はい、フォイン君、あなたが私の代わりを努めてください。この問題の目指すところは、対象物がどんなに魅力的で珍しく貴重な物であっても、見た目に惑わされることなく問題自体を解決する必要があります。あなたがこの問題の花瓶を床に置いて移動させた時に、この問題の目指すところを見抜きました。そうです、この問題を見抜くという賢明な行動をとったので、私の代わりとしてとても相応しいです」とチオアン先生は嬉しそうに言いました。

 ところが、フォインはこの責任ある先生の代わりを務める役目を断りました。「先生、この僧院には昔から占いのために使う亀の背甲(殻)が保存されていますよね。教えてくださいますか。もし亀に2つのうちのどちらかを選択する権利を与えたとしたら、@この亀は人々の占いのために死ぬことを好んで選んだでしょうか。あるいは、A沼地の泥の中で尻尾を引きずって生きることを好んで選んだでしょうか?」。「フォイン君、勿論、Aの生きることを選んだでしょう」と、先生は答えました。「ですから、先生、僕も先生がお留守の間の重い責任のかかる役目よりも、他の弟子たちと同じように勉強することを選びたいです」と、フォインは答えました。この弟子の賢明さに益々感動したチオアン先生は彼の願いに同意して、年寄の弟子に留守番の責任を与えました。

 私たちが解決すべき問題に出会うとき、私たちはそれに直面する代わりに、多くの場合恐怖から解決を先延ばしにしてしまいます。問題を解決する時の危険は、問題を熟考し過ぎてゆき詰まってしまいがちになることです。未解決の問題の重みは、問題解決のために選んだ結果の善し悪しよりも大きいという事実を私たちは忘れてはいけません。難問題の攻撃を受ける時には、まず神の前で静かに黙想して、聖霊の賢明さの光と解決のカギを願うことが第一の解決策です。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとを守るでしょう。」(参照:フィリピ4, 6)

***************************************************************

祈ることができなかった神父

 フランスのある町の大神学校のダニオ神父はとても賢く、評判も高い神父でした。度々講と神学的問題の解決のために他の国に行くように誘われていました。しかし、ダニオ神父は若い時ように、楽に自由に祈る事が中々できなくなっていました彼の頭の中にはたくさんのアイデアが溢れ出ていて、自分の問題を神に説明するためにたくさんの言葉が必要になりました。そういう時、ダニオ神父は神の前で沈黙する方法を知りませんでした。そういう理由で聖堂のご聖体の前で時間をかけて礼拝をしても、自分の心は潤されず、乾燥したままでした。 自分の口と心から出た祈りが自分自身を満足させないので、きっと神もこの祈りを聞いて満足していないだろうと神父は考え始めました。しかし、司祭の務めを果たすためにどうしても祈り続けたいので、ダニオ神父は良く祈ると言われている先輩の神父と会うことを決めました。

 約束の日、時間になり急いでダニオ神父は先輩の部屋に行きました。気持ちが焦っていたので、ダニオ神父は先輩の神父の部屋に行くなり挨拶もせずに「神父様、教えて下さい。私は昔のように祈る事ができなくなっています。ゆっくり落ち着く時間が無いからでしょうか?」と尋ねました。先輩は「なぜそんなに急いでいるのでしょうか。座ってゆっくりリラックスしてお茶でもお飲みください。 私とゆっくり話しましょう。少し位なら私と話し合う時間はあるのでしょう?」と答えました。しかしダニオ神父は落ち着きがなく、せっかちになって「いえ、なぜ今すぐではないのですか。 祈りについて今すぐ知りたいのです」と言いました。先輩の神父はニコニコしながら「本題に入る前に、少しリラックスしてお茶を飲みましょう」と言って、ダニオ神父に座るように指示しました。ところが、ダニオ神父はゆっくりとリラックスすることなど不可能な状態で、ずっと自分のことと自分の祈り方について話し続けていました。


 そこで先輩の神父は「黙れ!」と言ってダニオ神父にお茶のカップとソーサーを手渡しました。それからお茶を注ぎ始めました。カップは満たされ、お茶がカップから溢れ出ているにもかかわらず、先輩の神父はお茶を注ぎ続けました。ダニオ神父は「あのぉ・・・神父様、何をなさっているのですか。カップはもういっぱいです。お茶がカップから溢れていますよ」と注意しました。しかし先輩の神父はお茶を注ぎ続けました。お茶がカップとソーサーから溢れて、地面に流れ始めました。ダニオ神父は立ち上がって全力で叫びました。「神父さん、あなたは見ていますか!私のカップはいっぱいです。これ以上、お茶を受けられないのが解りませんか!」ときつく言いました。

 先輩の神父はまたニコニコして言いました。「はい。そうです、正しいです。カップがいっぱいで、もう一滴も入れることができません。カップがこれ以上は受け付けないと理解していますよね。それじゃあ、どうやって自分の言葉で溢れているあなたが、祈りについて私の教えを受け止めることができるのでしょうか。それは不可能です。黙って、先ずあなたの心の中にスペースを作ってから、私にできることを教えてあげましょう。昔のように祈りたなら、自分を空っぽにしてください。他のやり方がないからです。神の前で、まず黙っていなさい。自分の計画や問題、自分が感じることや想像していることから離れて空っぽになったら必ず聖霊があなたをすぐ満たし、心から湧き出る祈りがあなたの口から溢れるでしょう。神の前でずっと語るのは、あなたではなく、あなたの内にある神の霊です」と先輩の神父は教えました。この話を聞いて反省したダニオ神父は、この教えを胸に刻み、喜びにあふれ大神学校に戻りました

 聖書は教えています「 わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“聖霊”は弱いわたしたちを助けてくださいます。聖霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです…聖霊は、神の御心に従って、わたしたちのために執り成してくださるからです』(参照:ローマ826)。またイエスも「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(参照:マタイ6,7-8)と言いました。祈りは無償で与えられている神の賜物と恵みです。それを空っぽになった心で受けとめましょう。

***************************************************************

気がかりの木

 アルフレッドは有名なプロの大工さんでした。シモンの家の本棚を直すために、古い車で朝早く出かけようとしましたが、車のエンジンがすぐにかからなかったので少しイライラしました。何回も試してやっとエンジンがかかりました。ところが10キロほど走った所で、彼は大切な道具箱を忘れたことに気が付いて、仕方なく家に戻りました。幸いなことに、彼は車のエンジンを止めなかったので、車はすぐに動いて無事にシモンの家を目指して走り出しました。ところが少し走った所で、今度は彼の車の右後のタイヤがパンクしたので、新しいタイヤに取り替えるために1時間以上かかってしまいました。そういう訳で、アルフレッドは、益々イライラしました。


無事にシモンの家に着くと、彼はすぐ仕事を始めました。一生懸命、丁寧に一日中仕事をしましたが途中でトラブルが起こりました。彼の電気ノコギリが故障してしまったので、手動のノコギリを使ってなんとか仕事を終わらせました。帰るとき、彼の車のエンジンかかり難く何回も試しましたが、今度は全くかかりませんでした。それを見ていたシモンは、気の毒に思ってアルフレッドの車を取りに来るように車の修理屋さんを呼びました。そして自分の車にアルフレッドを載せて、彼の家まで送って行くことにしました。

  シモンに送ってもらっている帰りの車中、アルフレッドはシモンの横の席でずっと不満げな顔をして無言で座っていました。自分の家に着くと、シモンにお礼も言わずに車から降りると、アルフレッドは急いで庭に茂っている大きな木を強く抱きしめに行きました。木を抱きしめたアルフレッドはすぐに、ニコニコして喜びの声でシモンに待っている家族を紹介すると言いました。彼の急変した態度と明るい言葉に驚いたシモンは彼に尋ねました。「エッ!今まで不満で無言だったあなたが、あの木を抱いてから急に元気が戻ったのはどうしてなんだい?あの木に何か秘密でもあるのかい?」

アルフレッドは「僕はあの木を“気がかりの木”と名付けています。日々起こる問題や心配事、思いがけない出来事や災いを避けることが出来ないことはよく解っています。しかし、僕が確信していることが 1つだけあります。このような問題や気にかかることは、僕の家では妻や子供たちのいる家庭の中には決して入れません。なので、僕は毎晩家に帰ると、心配の木にぶら下がってその枝に心配事や色々の問題をかけて置きます。そして次の日の朝になると、この木を抱きしめて昨日の心配事を木から取り外します。
面白いことに朝、昨日の心配事や色々の問題を迎えに行くと、前日に木に吊るした時よりも心配事や色々の問題が軽くなっています。それに驚くことにその数がかなり減っているのですよ。」と笑いながらアルフレッドは言いました。言い終わると何も無かったかのように、アルフレッドは幸せそうな顔で自分の妻や子供たちを迎えに行って、シモンに紹介しました。

 私たちは日常生活に起こる気にかかる事や心配事に巻き込まれる危険があります。またそれらの問題をずっと見続けると、その問題に飲み込まれてそこから出ることが難しくなります。心の幸せを失わないように、アルフレッドのように、思い過ごしの心配事や自分の不満、怒りをどこかへかけて(一端置いて)、明るい気持ちで家族や友達、知り合いの人々に出会えばいいと思います。そして、一人になった時に勇気をもって一つひとつの問題を解決する方法を探す必要があるのではないでしょうか。聖書が勧めている通り「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(参照:マタイ6, 34)日常の悩みを暫く忘れましょう。そうすれば喜びや平安が溢れ出て自分に戻ってくるに違いありません。


***************************************************************

恐れている木の物語

  大きな緑の牧草地の降り注ぐ太陽の下で小さな芽を出した木がありました。土から芽が出た途端にこの赤ちゃんの木は恐れで大きな声で泣きました。その日から、成長していくなかで彼が抱いていた恐れも段々と大きくなりました。この木はとても小さいので、風が少し吹くたびに全身が風で大きく揺れ動きました。また、この小さな木は雨が降ると濡れるのが怖く、太陽が燦々と長く輝いていると自分の葉が火傷をしてカラカラになり縮れるのが怖いのでした。さらに、小さな木は畑に遊びに来た子供たちに自分の枝を壊され、自分の幹を押しつぶされることもとても恐れていました。

  その小さな木は、強くなるためにできるだけ速く成長したかったのです。ある日、雨が降ったとき、雨のお陰で彼は新しい葉を作ることができると気がつきました。「雨は敵ではない、ぼくが成長することを助けていてくれるんだね」と、木は独り言を言って雨を恐れずに受けることを決めました。他の日には、吹き始めた風が小さな木の涙を乾かしました。「ちょっと待って、風も気持ちいいし、涙を乾かしてくれるんだね」とびっくりして木は喜んで叫びました。さらに、太陽の光線によって自分が段々と大きくなることも小さな木は理解しました。その結果、生まれた時に抱いた恐れを木は段々忘れてしまいました


 やがて青年になった木は、自分はとても強いと感じ始め、人々を見下していました。なぜなら人々がもう自分を踏み砕くことができなくなったからです。しかし、他の問題が彼に新しい種類の恐れを抱かせました。と言うのも、木は自分の葉が次々と落ちるのに気が付きました。彼が子供だった時のように恐怖が彼を強く襲ってきました。自分の周りを見回すと何と他の木も葉を落としていることを気が付きました。そこでこの小さな木は、何が起こっていたのか一番長老の木に尋ねました。彼は「私たちは長く持っているものは、いつも見慣れているので 、失うことを心配せずにそれらの世話をするのは自然に忘れてしまいます。しかし、それらがなくなると私たちはとても寂しくなります。君の落ちた葉がそれを思い起こさせます。でも、決して心配しないで。私たちは何回も繰り返し必ず新しくなるのです。葉が出る季節になればあなたの葉はもう一度現れるでしょう。そしてまた季節が来れば落ちるでしょう。それが人生というものだよ!」と長老の木が説明しました。その時から木は長老の木と親しい関係を結びました。彼の助けで、木は冷たい、厳しい冬の風と雪の重さも恐れずに耐え忍ぶことを学びました。

 その話を聞いて小さな木は、安心しました。季節ごとに彼は花を咲かせ果を実らせ、成長し続け立派な大人になりました。土の中に降ろしている根は、年を重ねる毎に増々強くなり、美しくたくましい木になりましたので、人々が彼を見に来ました。また子供たちが木のそばで遊び、彼の枝に座ることも大好きでした。その後この木は何世紀にもわたって大勢の人に喜びと安らぎを与えたそうです。

 私たちも成長しながら恐れから恐れへ生きています。問題のシャワーと心配の雨、思いがけない試練の風と災いの暴風が私たちを激しく襲ってきます。また私たちは度々持っている物や愛する大切な人も失ってしまいます。いつかその時が来れば、必ず老化することの厳しさと日々の疲労の重みをひどく感じるでしょう。しかし恐れてはいけません。涙は人を成長させるために必要なものです。たとえ太陽が雲の後ろに隠れていても、人生は素晴らしいです。悩み、心配し過ぎる私たちにイエスは「恐れることがない、見よ、私はすべてを新たにします」〈参照:黙示録21, 5〉と励ましています。そしてまたイエスは私たちを誘います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう・・・そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(参照:マタイ11, 28-29)と。

****************************************************************************************************************************

愛の救助

注意:この話は人間の持っている様々な感情や状態をそれぞれ一人の人間として(擬人化)描いています。

洪水が地球を襲う前に、幸福、寂しさ、恨み、若、高慢、謙遜、愛、そして他のすべての人間的な感情と状態はある小さな島で安全に暮らしていました。神はこの小さな島が洪水によって破壊されると知らせました。水に沈むことを知ったこれらの感情や状態たちは不安と恐怖に陥りました。島に住んでいた皆はよく話し合って考えた上で、皆で海を渡って高い山を目指して避難しようと決めました。また島から逃げる方法は船しかありませんでした。しかし、大きな船を所有しているのは「分かち合いくん」と「助け合いくん」だけでした。二人は出来るだけ大勢の仲間を自分の船に乗せました。他の感情たちと状態たちは小さなボートを漕いで、それぞれ一人で逃げました。「愛くん」は皆を助けるためにとても忙しく人々の世話をして、自分の持っていた小船を「貧困くん」に与えたので、自分は島を離れることができませんでした。
島の海岸に立って「愛くん」は「富殿」の豪華なボートがそう遠くないところを通り過ぎるのを見ました。「愛くん」は『おぉい、「富殿」。私も連れて行ってもらえませんか?』と大きな声で呼びました。「愛くん」の呼ぶ声を聞いて近寄ってきた「富殿」は「駄目だめ、無理です。だってこれを見て下さい、私のボートには銀と金がたくさん積んであるから無理です。あなたの乗る場所がありません」と「富殿」はキッパリ断って、「愛くん」の前を通り過ぎて行きました。暫くすると今度は「高慢様」の立派で目立つヨトを見付けました。「愛くん」は前よりも大声で叫びました。『「高慢様」、お願いします、助けてください』と「愛くん」が願うと『私はあなたを助けることができません。見て、「愛くん」、あなたはたくさんの人を助けたので服がよごれていてとてもきたないです。私のヨトをよごすので他の船を探してください』と「高慢様」は言ってさっさと消え去りました。

 その後、「悲しみ婦人」の小船が現れました。「愛くん」は彼女に尋ねました、「悲しみ婦人様お願いします。僕も一緒に乗せてください」すると『あぁあ「愛くん」、ごめんなさい。私はとても寂しいので、一人になる必要がありま』と「悲しみ婦人」は悲しげに答えました。そのすぐ後を、「幸福王子様」の船が通り過ぎましたが、幸せに満たされてうっとりしていた「幸福王子様」は、一生懸命に叫んでいる愛くんの声に気が付きませんでした。とうとう、「愛くん」が島と共に沈むことを覚悟し始めたとき「愛くん、ちょっと待ってください。私はゆっくりしか歩けませんが、よろしければ僕の船に乗ってください」とある非常に長いひげを持老人が言いました。この老人のお陰で「愛くん」は救われました。数時間後に、二人は安全な山の頂上に辿り着いて、船から降りた老人は「愛くん」の感謝の言葉を待たずに直ぐにどこかへ去ってしまいました。愛くんはとても感謝し喜びに満ちていたので、老人に名前を聞くのを忘れてしまいました。

 「愛くん」は「私を助けたてくれたあの老人は誰だったのでしょうか?どなたかご存じありませんか」と山の頂上に集まっていた他の人々に尋ねました。すると「あの方は「長老の時さん」で」と何でも知っている「知識先生」が答えました。「そうですか!「長老の時さん」でしたか…本当に?」と ビックリした「愛くん」は「でも、なぜ「長老の時さん」が私を助けてくれたのでしょう」と聞きました。「それは、愛が人生においてどれほど重要かを理解できるのは「長老の時さん」だけだからです。愛がなければ全ては無に等しい」と賢い「知識先生」が説明しました。

 困難の時に自分だけを安心させるために急いで何かを決めることは避けた方がいいと思います。「愛くん」と同じように他の人の事に気を配って、ゆっくりと行動することが望ましいです。この方法から真の愛が湧き出てきます。時がすべてを改善すると言われています。コへレトの言葉が教えている通り「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。また、すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」(参照:コへレト3,117。愛が完成されるには時間が必要です。完全な人間になるには、成長している私たちにも時間が必要です。私たちはいつか、永遠の命に生きるように召されているので、世を造る前の永遠の昔から、神はずっと、限りのない永の愛を私たちに注がれています。「それは、愛が人間にとってどれほど重要かを理解できるのは神だけだからです」。

**************************************************************


待ってください、私が見せますから・・・

 ステファは、小学校の一年生です。彼は新しい自分のクラスに入った時に、好きなところに座ろうとしました。しかし、担任の女の先生が「ちょっと待って。君の席を探すから・・・」と言って、ステファを決められていた席に連れて行きました。すべての子どもたちを決めておいた席に座らせてから、先生は「今日は綺麗な絵を描きましょう」と言いました。幼稚園の時からステファは 自由に絵を描くことが大好きでしたので、それを聞いてとても嬉しくなりました。しかし先生は「勝手に好きな絵を描いちゃ駄目ですよ。待ってください、私が見せますからそれを守って描いてください」と言って、描くべきものと、決めた色と大きさを言いました。ステファが好きな色は使ってはいけなかったので、彼はガッカリして戸惑い、悲しくなってきました。

 次の日先生は、今度は「紙粘土で素敵な物を作りましょう」と言いました。幼稚園の時からステファは、自由に粘土で遊んで、想像した物を作ることが大好きでしたから、それを聞いてとても嬉しくなりました。しかし先生はその日も「勝手に好きな物を作ったら駄目ですよ。待ってください、私が見せますから」と言いました。そして、小さな丸いお皿を見せながら、皆が同じ形と大きさで作るように命じました。ステファはまたガッカリして悲しくなりました。家に帰ってから自分の部屋で涙を流してシクシクと泣いていました。すると、それに気づいたお母さんがステファを慰めましたが、彼は「ぼくはあの学校が大嫌いだ!もう行きたくない。だって自由がないから・・・」と大声で泣き叫びました。ステファから学校での出来事を聞いて、お母さんは担任の先生とこの問題について相談する約束をしました。

 相談の約束の日、先生はお母の話を聞いてから次のように答えました。「私は15年以上この学校で教えています。今まで私の教え方について一度も不平や苦情を聞きませんでした。私は子供たちに正しいやり方を見せる義務があるので、物事の仕方をきちんと教えてそれを見せます。子どもたちに自由にされたら、クラスの一致は破壊されてしまいます」と先生はきつい言葉で自分の意見を告げました。お母さんは先生に「学校は教育の場所なのではないでしょうか。先生の指示に従って、子どもたちがずっと先生と同じようにしていたら彼らはロボットのようになってしまいます。彼らの知恵と自発的な想像も衰えてしまうのではないでしょうか」と問いかけました。しかし、先生は「一年生の子どもたちはまだ、未熟な者です。ですから、きちんと見せないなら、何もできません」そう偉そうに言いました。「そうですか・・・。ではうちの子は、この学校には合いませんね」と言ってお母さんは先生の部屋から出て行きました。

 それから数日後、ステファのお母さんは自分の子どもがもっと自由に成長し教育される学校を探し、そこにステファは入学することができました。その学校では、子どもたちは好きな場所で、好きな仲間のそばに座り、勉強の時にも自由に先生に質問をすることが出来て、自分たちの想像に従って絵を描くことも、手で好きな物を作ることも出来て、様々な遊び方を自発的に決めることが強く勧められていました。そのようなやり方のお陰で、この学校の先生たちはしっかりと子どもたちの特徴や才能、知恵を発見することができていました。確かにこの学校では、先生たちは「待ってください、私が見せますから」などとは、絶対言いません。むしろ子どもたちの自発性を一生懸命に引き出すことに励んでいます。

信仰に対しても同じことが言えるでしょう。教会が教えられた同じ信仰を持っていても、皆それぞれ、自由にその信仰を養い、深め、証しをします。また、神に向って皆が自分の祈り方と姿勢を決め、教会の座る場所も自由に選びます。キリストにおける信仰は人を自由にする(参照:ガラテ5, 113)と聖書が教えています。そういう訳で、キリストに従い、キリストを模範とする信者たちは 強制的ではなく自由に自分の意志でイエスを真似るように誘われています。

++++************************************************************************************************************************

この犬を僕に売ってください


ナポリさん家の雌犬が七匹の子犬を産みました。彼は一匹だけ残して、他の子犬たちは誰かに売ろうと決めました。そこで彼は自分の家の窓に「可愛い小型犬を販売します」と書いて、子犬の写真入りのポスターを貼りました。ちょうどその時、道を歩いていたダニエルと言う15歳の少年が、ナポリさんのポスターを見ました。子犬の写真を見て、すぐナポリさんの家のベルを鳴らしました。ナポリさんがドアを開けるとダニエルは「子犬を見せてもらってもいいですか?」と聞きました。「はい。どうぞこちらへ来て下さい」とナポリさんは答えました。「わぁ!とっても可愛いですね」と目を輝かせて言いました。「あれ?この子犬と他の子犬たちとは違っているみたい。可哀そうにこの子だけ何だか元気がないみたいですね?」と少年は尋ねました。

「確かにこの子犬は他の子犬のように元気ではありません。獣医さんによると、彼は後ろの一本の足に奇形があり、普通に歩くことができず、一生足を引きずるでしょうと言われました」とナポリさんは説明しました。それを聞いた少年は微笑んで叫びました。「そうですか。では、是非僕に子の子犬を売ってください。いくらで売って下さいますか」とダニエルは非常に興奮して聞きました。「普通は5000円です。しかしこの子犬は売れません。もし、君がよければ上げましょう」とナポリさんは勧めました。ところがダニエルはすぐ激しく反応して、ナポリさんの目をまっすぐに見つめて「いいえ、ぼくはこの子犬を買います」と言いながら少年はポケットから500円を取り出しました。

「いいえ、ただで僕にこの子犬を渡してはいけません。 この子犬は他の子犬と同じくらい価値があるので僕に売って欲しいのです。今は500円しかお支払いしませんが、5000円のお支払いが終わるまで毎月500円お支払いします。500円は僕の毎月のお小遣いですから約束します。必ず5000円でこの子犬を買います」とダニエルは言いました。「君はよい子ですね。でも、他の子犬を選んでください。ジャンプしたり走ったりして、どこにでもついて来て、あなたと遊ぶことができる子犬を。この体の不自由な子犬ではそういうことは絶対できませんから」とナポリさんは優しく薦めました。

 何も言わずに少年はかがんで自分のズボンの裾を引き上げました。それから彼はナポリさんに、鉄の棒で支えられた変形した自分の脚を見せました。「この子犬が、私が欲しい犬です。御覧の通り、僕も普通に走ることやジャンプすることができません。しかしこの子犬には理解のある友達が必要です。僕は子犬を支え、この子犬も僕に励みを与えるでしょう」と少年はナポリさんを説得しました。ナポリさんは自分の唇をかみしめて涙ながらに言いました。「君はとてもいい少年です。よく分かりました。この子犬を君に売ります。また君が約束した通り毎月出会いましょう。時々この子犬を連れて来てね。どのように成長するのかを知りたいから。ここに残っている他の子犬たちも、君のような素晴らしいご主人に出会えることを希望します」とナポリさんは言いました。 ダニエルは彼に500円を渡して、望んだ子犬を抱きしめながら自分の家に帰って行きました。

 誰でも、自分をありのままに歓迎されることを望んでいます、見える障害が有っても無くても、高学歴であってもなくても、どんな社会的立場を持っていても、その人をありのままに受けとめることは大切です。実は、他の人々が自分から離れようとする時にこそ、真の友は近寄り、条件なしに愛し続けます。聖パウロは、この正しい生き方を私たちに教えました。「弱い人々に対しては、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に対して、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」(参照:1コリント9,22)ですから、偏見を捨て、恐れずに、ありのままの人々と出会い、歓迎し、素直に愛しましょう。        

**************************************************************

良いアドバイスをする男

フランスのあまり人に知られていない僻地(へきち)に、知恵で満たされてよいアドバイスを与える男が住んでいました。最初、彼は家族や親しい友人だけにアドバイスしていました。しかし、彼の評判は段々と広まり、方々から人々が集まり、彼に色々な相談をするようになりました。

 ある日、彼が市場に行ったときに珍しい荷物を背負って腰が二つ折れになっている女性に出会いました。彼女はとても重い木のドアを背負っていたのです。 彼が驚いて尋ねました「私はあなたを助けることができます?」「いいえ、ありません。 離れ!邪魔をしないで!」と女は威嚇するような表情で答えました。「しかし、この重荷を積んでどこへ行くのですか?」と彼が聞くと、「お前のように、私も買い物をするつもりだ」と、彼女は素っ気なく答えました。「背中にドアを背負って? 」と彼が尋ねると「当たり前だよ。どこにこのドアを置いて置くんだい? 私は家にとても価値のあるものや宝石、古いカーペットなどを持っているんだよ。そして夫は今朝、仕事に出かける前に私にこう言ったんだよ。『 気をつけなよ。誰もこのドアを通らないようにしない!』と。だから私はこのドアを外して、背中に背負っているのさ。そしたら、 誰もここを通れないだろ?」と女が説明しました。それを聞いて彼はとても驚きました。そしてこの女性が少し愚かであることを理解したので「奥様、お望みなら、この重いドアを背負うのをやめる方法を教えましょうか?」と言うと「いいえ、とんでもな。 私の唯一の関心事は、このドアの重さをいかに軽くするかということです」と答えました。「だったら、このドアを取リ外した場所戻してください。そうしないと、誰でもあなたの家に入り、あなたの財産をぜんぶ盗むでしょう」と言うと、「心配する必要はありませんよ。私がこのドアを背負っている限り、誰もドアを越えて私の家に入ることができませんよ」そう言って彼女は踵を返して去りました。

毎日、多くの人が彼の賢明なアドバイスを受けに来ました。しかし彼は、その中に毎週来る人たちがいることに気づきました。彼らはいつも彼に同じ問題を話し、同じアドバイスを聞いていましたが、誰一人それを実行することはありませんでした。ある日、彼は毎週来る人たちを集めました。賢明な彼はとても面白い冗談を言ったので、皆爆笑しました。暫く時間をおいて彼はまた同じ冗談を言いました。 彼はそれを三時間も言い続けました。同じ冗談ばかりなので皆は段々と疲れて気難しくなってきました。その時、彼は言いました。「あなたたちは同じ冗談で何回も笑うことはできません。しかし、あなたたちは私に同じ問題を千回も聞かせて泣くことがよくできますね。さぁ、心を入れ変えて私の良いアドバイスを実践してください。そして、私に面倒をかけないで下さい」と彼は集まった人たちに願いました。

 私たちはキリシャ神話の有名なシシュフォスの石のように決して解決しない問題を背負っています。良いアドバイスを受けても、それを実行せずに苦情や文句を言い続けます。結局、自分自身も、自分を訪ねて来る人々もきっと疲れ果ててしまうでしょう。ですから困った問題を背負う時には、イエスのアドバイスを聴きましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(参照:マタイ11, 28)。イエスは「私たちの問題と痛みを背負う」(参照:イザヤ53,4)良いアドバイスの救い主ですから。

 *シシュフォスの石・・・ギリシャ神話で、狡猾なコリントスの王。ゼウスの怒りにふれ、死後、地獄に落とされて大石を山頂まで押し上げる罰を受けたが、大石はあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される。このことから「(果てしない)徒労」を意味する。

************************************************************


神のセンス

 いたずら好きの青年ヘンリコは教会の主任神父に答えるのが難しい質問をすることが大好きです。特に悪の問題について彼は「もし、イエスが私たちのために死ぬことによって完全に罪と死に打ち勝ったなら、どうして人々が悪を行い続けるのでしょうか」と度々質問しました。答えに困った神父は、いつもの通り次のように答えました。「神のやり方は人間のやり方と異なっています。今、分からなくても、いつか必ずすべてをはっきり知る時がきます」と。しかし、この答えは青年ヘンリコを満足させることができませんでした。またこの青年は、答えるのが難しい質問を次々に質問してくることを理解した神父は非常に困っていました。

 ある日、神父はよく考えた上でヘンリコに言いました。「神は絶対に人間の真似をしません。例えば自分の民を生み出すために神は若い夫婦ではなく、非常に年老いたアブラハムと妻のサラを選びました。二人は神の民となるたくさんの子孫を設けました。またこの民をエジプトから導き出すために、神は自信をもって上手に話す人ではなく、とても内気で、たどたどしく話すモーセを選びました。さらに神は、自分の民を守ることのできる王として力強い軍隊ではなく、弱々しく人生体験のない若いダビデを選びました。このようにして神は私たちを助け救うために、考えられない手段を使います」と神父は説明しました。

  これを聞いた青年ヘンリコは、少しだけ納得しました。「じゃあ、どうしてイエスの復活から後は何も変わらなかったのですか。戦争、殺意、盗み、不倫、偽りなどがなぜ今でも続いているのでか」とヘンリコは大真面目に質問しました。そこで神父は「ちょっと、待っていて、すぐ戻るから」と言って自分の部屋に入りました。神父は立派な刺繍がされた大きな布を持って部屋から出て来ました。「ヘンリコ君、よく見なさい。この布にはとても綺麗な刺繍がされています。この刺繍は長い時間をかけて誰かが丁寧に刺繍をしたからです。昔から神も世界を美しくするために、丁寧に刺繍をし続けています。神は全ての出来事が調和するように、時間をかけて働いています。今までに出来上がった神の働きは、神や天使たち、聖人には、はっきり見えていますが、地上にいる私たちには、この刺繍された布の裏側しか見えていません。見ての通り、刺繍布の裏側は刺繍糸がもつれていて決して綺麗ではありません。表に何を刺してあるのか解りません。この刺繍布の裏側と同じようにヘンリコ君は悪の問題や救いの実現について話す時、神の業の裏側しか見ていないのです。ですから何も綺麗な面を理解できないのです」と神父は説明しました。

  青年ヘンリコはニコニコしながら「やっと解りました」と神父を見て叫びました。「私の人生もそのようであれば嬉しいです。人々が私を変な目で見ても、きっと神は私を美しくするでしょうね。そうでしょ?」とヘンリコは尋ねました。「もし、時間を作って罪の赦しを受けるなら、きっと神は君の人生のもつれた糸を整理されるでしょう。あなたの生涯はきっと美しい刺繍で飾られたものになると私は信じていますよ」と、神父はへンリコを励ましました。

  私たちは日常生活の良い側面を見ることを忘れがちです。上手くいかない時に不平や不満の言葉をすぐ口に出しています。もし神の眼差しですべてを見ることを学ぶなら、きっと人生が美しく、楽しく見えるでしょう。聖書が教えている通り「わたしの目の覆いを払ってください。あなたの業の驚くべき力にわたしは目を注ぎます」。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

危険な強い信仰

 村の人たちに「神の僕(しもべ)」と呼ばれている人がいました。彼は二階建ての一軒家住んでいました。村人たちにいつも「自分は神に対して揺るぎない信仰を持っている」と自慢していました。そして「私はなにも恐れません。なぜなら神は私を守るから…」という言葉をよく言い訳にする習慣がありました。ある日、今までない大きな台風が彼の住む村を襲い大きな被害をもたらしました。何日も降り続いた雨でダムが決壊し洪水を起こしました。村の人たちは早めに高台の安全な場所を探して避難しました。しかし、「神の僕」は、自分の家に残ることに決めました。「一緒に逃げよう」と勧めた村人に彼はいつものように「私はなにも恐れません。なぜなら神は私を守られるからです」と自慢げに答えました。

 しかし時間が経つにつれ段々と水嵩(みずかさ)が増して来て、もう一階は水に浸かってしまったので、「神の僕」は家の二階に登って、窓から外の様子を見ようとしました。丁度その時、小さな船に乗った近所の人が、彼の家に近づくと船に乗るように誘いました。しかし「神は必ず私を救いに来る」と言って、「神の僕」は近所の人の誘いをキッパリと断りました。暫くすると水の流れが段々強くなり、水が家の二階を超えて来ました。「神の僕」は家の屋根に登ろうと考えて、彼が屋根に登った丁度その時、村人の救助をしている消防士たちの救助船が彼の家の前に来て、「今すぐ一緒にこの船に乗ってください。ここに残っていると死んでしまいますよ!」と叫びました。しかし「神の僕」は、またそれも断りました。「私は安全です。心配しないでください。神は必ず私を助けに来てくださいますから」と冷淡に答えました。

  結局「神の僕」は、家の屋根の上に避難し屋根に座ったまま、強い雨の攻撃を浴びながら彼は一生懸命に祈っていました。「神様、あなたを信じますから、早く私を救ってください」と祈り続けました。そのときに、空にヘリコブターが現れました。乗っていた人たちは「神の僕」を救うためにロープを差し出そうとしましたが、彼はこの最後のチャンスの救いも拒みました。「私は神により頼む人です。神は必ず、私を救います」と言い張りました。ヘリコブターが彼の家から離れた、その時、洪水が彼の家を押し流し、完全に破壊しました。そして「神の僕」は水の中に沈んで溺死してしまいました。

  天国にいた「神の僕」をご覧になった神は彼に言いました。「ここで何をしているのですか?あなたは、今死ぬ時ではなかったのに!」と。「神の僕」は自分を弁明して「私は、神様あなたに強い信仰をお見せし続けてきました。村人の前で私の信仰を証ししました。決して諦めずにあなたに救いを願って祈り続けました。しかし、神様あなたは私を全く助けてはくださいませんでした。あなたが私を救われるのを私はずっとずっと待ち続けていたのに・・・!」と涙ぐんで訴えました。彼の弁明を聞いてびっくりした神は、彼に答えました。「わたしはあなたがあまりにも一生懸命に祈るので、次々に具体的な助けをあなたに送りましたよ。ところが、あなたは村の人々の誘いを断り、近所の人の船に乗ることも断り、消防士たちの救助船やヘリコプターでの救助も断ってしまったのではありませんか。あなたが自慢している強い信仰は、結局あなたを目の見えない人にしました。あなたはわたしの救いの手段である隣人の愛の行為や助けの前にまったく無関心になってしまいました」と神は寂しそうに彼に話しました。

 信仰が救いの道になるために人は神にだけではなく、回りにいる人々と世界の出来事に目を注ぐ人にならなければなりません。そして今目に見えていることを自分の祈りの土台や支えとすることが必要です。なぜなら信仰は全ての事に対して人が敏感になることを教えるからです。信仰のうちに目覚めている人は幸いです。「あなたがたは、起ころうとしているすべての災いから逃れるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(参照:ルカ 21:36)とイエスは勧めています。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

いたずらっ子のパウロ

  パウロはとてもいたずらっ子でした。彼はそれをみんなに自慢していました。彼は何度も隣のビグディー婦人の猫のしっぽに何個もの鈴を付けて喧しい音を出させて猫をパニックに陥れていました。ある日、パウロが家の中で走りまわっていた時、買ったばかりの水晶の器を蹴飛ばして壊してしまいました。自分が無実であることを弁明するために、パウロはお母さんの大好きな犬のせいにしました。いたずらっ子のパウロは無実を証明するために、いつも自分にとって都合の良い理由を見つけました。それが出来ない時は人のせいにする癖がありました。問題なのは、彼の両親は自分の子どもは天使のように非の打ちどころのない正直な子供だと思い込んでいたことです。

 パウロの天才的な才能は、両親の前では可愛い天使のよう、とても優しい子どもの振る舞いをすることです。例えば、困っているお婆さんに楽しさを与えるために施しをしたいと言って、お父さんに500円を遠慮がちに小さな声で願いました。この提案を聞いて、感動したお父さんは「私はあなたをとても誇りに思います。施しをするなら500円ではあまりにも少ないのでこれを取ってくれ」と言いながら父は5000円札をパウロに渡しました。ニヤリとほくそ笑んでパウロは差し出されたお金を取って急いでさっきのお婆さんの所へ行きました。パウロは父に言いませんでしたが、勿論このお婆さんは困ってなんかいませんでした。と言うのも、このお婆さんはアメ売り場の店主だったからです。とても嬉しくなった人は、婆さんではなく、たくさんアメを買うことができたパウロでした。

 またお母さんの買い物の手伝いだと言って、彼は買い物をする度に、貰ったお札のおつりを母に返す時に10円か20円を勝手にかすめ取っていました。そのことに気付かなかったお母さんは、いつもお手伝いの代金として100円をパウロにあげていました。パウロはこのようにして集めたお金で大好きなビー玉を買っていました。さらに祖母と祖父を騙して、自分が欲しい物をとても賢くおねだりして上手に手に入れていました。パウロの親戚の人たちも何も気付きませんでした。ですら、彼は益々有頂天になって自分の悪賢いいたずらを仲間たちの前で自慢しました。ところがある日、仲間たちの前でパウロが大声で自慢していた時、隣のビグディー婦人彼の悪戯の自慢話をすべて聞いてしまいました。ちょうど物陰になっていたので、パウロからビグディー婦人は見えなかったのです。何とビグディー婦人の猫や他の人の動物を虐めていたのがパウロだったことを彼女は知りました。早速、ビグディー婦人はパウロのお母さんと出会って、事実を細かく報告しました。お母さんは、始めは信じようとしませんでしたが、話の細部を聞いているうちに言われたことが本当のことだと理解しました。パウロは天使ではなかったとお母さんは解りました。お母さんはそのことをパウロのお父さんに打ち明けました。彼はパウロの本当の姿を知ってとてもショックを受けました。

 両親は相談してパウロに罠をかけることを決めました。家に隠しカメラを置いて、彼の行動と行いを観察しました。時間がかかり苦労しましたが、ようやく彼の悪事を動画に撮ることが出来ました。動画を見せられたパウロは言い逃れが出来ずに黙って大人しくしていました。パウロは厳しい罰を受けました。彼の悪い行動を辞めさせるために、先ずパウロに騙した人と出会って謝罪させました。つぎに、持っていたお年玉をお母さんに預けて、6か月の間はお小遣いはなしにしました。映画館に行くことやテレビや電子ゲームもなし、また色々なお母さんの手伝いもご褒美なしですることを決めました。

  子供時代は小さな悪戯や少しだけ人を騙すことによって楽しさやスリルを味わいま。しかし大人になってからでは、小さな悪戯が重大な結果や取り返しのつかない結果をもたらす可能性がたかいです。そいう理由で聖パウロは私たちに勧めています。「悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」(参照:1コリント1420)と。また子どもの悪戯や悪賢さを簡単に赦すことが出来なければ、大人の悪事を容易に許せません。人を騙して、馬鹿にして笑うことは易しいですが、人を尊敬し愛すること、人の行動に対して忍耐することには、よりたくさんの努力が要求されます。

  ところであなたはご存じでしたか。限りなく人を愛する神は子供のように悪戯をすることが大好きなのです。しかし、物の判断については大人のように行います。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

自由の値段

 復活祭の日ジュリノ神父は説教台の上に空っぽの古い鳥籠を置きました。すると直ぐに、信者たちの目は彼にそそがれました。そこでジュリノ神父は説明を始めました。「昨日、町を歩いているとこの鳥籠を持っている少年と出会いました。籠の中で三羽の小鳥が震えていました。小鳥たちは病気でした。「この小鳥をどうするつもりですか?」と私は少年に尋ねました。「家に連れて帰ってから、この役に立たない小鳥に意地悪なことをして少し遊んでから、彼らの羽を抜いて、僕の猫のエサにします」と少年は笑いながら答えました。私は、なんということだと思い、「私にこの小鳥を譲ってくれるかい?幾ら欲しいですか」と私は少し興奮して叫びました。

 すると少年は、私を暫く黙って変な目でじっと見つめてから「かしこまりました。それなら一羽を一万円で売るので、三万円ください。」と言いました。「えっ、え、それは随分と高いですね」と言いましたが、彼は「それは自由の値段ですから・・・」と答えました。私はやられたと思いましたが、どうしてもこの小鳥たちを助けたかったので、ポケットから三万円を出して、この少年に渡しました。彼は大喜びで、小躍りしながら人混みの中へ消えてしまいました。その後、私は町の公園へ行き、そこで鳥籠の扉を開けて、小鳥たちを自由にしてやりました。小鳥たちは我先にと大空へ飛び立ち、やがて姿が見えなくなりました。ちょうど復活祭でもあり、私の心はとても軽くなったことを感じました。この空っぽの籠はその出来事を無言で語っています。

 さて、ここからはよく似ているもう一つのお話をします。昔サタンがイエスに出会って次のように自慢していました。「今日エデンの園で、あなたのお父さんが造った馬鹿な女と出会いました。女が簡単に私の罠に落ちたので、今私は全世界を自分の手に入れました」そう言って、サタンは大声で笑いました。「そうですか。では、あなたはこれからどうするつもりですか」とイエスは尋ねました。するとサタンは「あはは。それはとっても簡単なことだよ。今から生まれるすべての人に罠をかけるのです。弱くて全く役に立たない彼らは、私の誘惑に反抗できないだろうね。これは実に楽しみだ。今後、全人類に意地の悪いことをし、酷い目に合わせてやるよ。まず結婚させ、しかしすぐに離婚することを教え、またとんでもない災いと疫病を与えて、それらをみんなあなたのせいにするように教えるつもりだよ。そして妬みや嫉妬、怒りや差別なども教えてやります。彼らは無知だからね。さらに自分自身を滅ぼすように、タバコを吸うこと、アルコールを飲むこと、麻薬の使い方も賢く彼らに教え込むつもりです。もっと面白いことお互いに殺し合うことも教え込みますよ。勿論、自殺や毒の飲み物、爆弾の作り方も必ず正しい方法を簡単に教えますよ。私はこれから毎日が、実に楽しくて仕方が無いですよ。あぁ、楽しみだ、た・の・し・みだぁ・・・・・」と大声でサタンが笑いました。

 それを聞いて、イエスはサタンに言いました。「皆が死んだらあなたの手には何も残りませんよ。この滅ぼされるべき全人類を私に与えてください」と。「えっ! 彼らは良くない罪びとですよ。必ず死ぬこの人たちをあなたはどうするつもりですか。彼らは全く役に立たない、私の大嫌いな人間たちです。そんな人間を本当に欲しいのですか・・・?」とサタンは尋ねました。「はい、欲しいです。ぜひ私にください」とイエスは答えました。「欲しいなら与えてもいいですが、彼らはあなたを冒涜し、唾をかけ、あなたを呪うかもしれないですよ。それでもいいのですか?」とサタンはさらに言い返しました。「はい。私はどうしても彼らが欲しいのです。彼らを私に渡す代わりに何を望みますか」とイエスはサタンに尋ねました。サタンは少し考えてから薄笑いをうかべながら、「そうなら、あなたの命、あなたの血で私にその代価を支払ってくれますか!」と嬉しそうに言いました。

 兄弟姉妹の皆さん。イエスは私たちをあがなって、自由にしてくださいました。イエスと共に私たちは死に、復活するので、サタンは完全に失敗しました。この小鳥たちの籠も、キリストの墓も空っぽです。ですから復活祭の日には喜んで神に感謝しながら、自分の自由を褒め称えましょう」と言ってジュリノ神父は説教をおわりました。

 全ての人が良く知っている「自由には値段がつけられない」のです。 しかしイエスの死と復活が私たちにもたらした「神の子の自由」(参照:ガラテ5,1)は、普通の自由よりも、値高い、もっとも貴重なものです。この自由の値段が私たちに罪と死に打ち勝つ永遠の命を与えました。ですからいつも、どこでも、至る所で、そして永遠にこの貴重な自由のために神に感謝し続けましょう。

***************************************************************


外観は私たちを欺くことができます

 二人の天使地上に遣わされました。一人はアズラエルと呼ばれ人間の住む地上での生活経験が豊かでした。もう一人はマナエルと言い、アズラエルのやり方を見て勉強するために人間の住む地上に送られました。その夜二人は、あるお金持ちの家に泊まるために遣わされました。二人の天使は人間の姿を借りて金持の家のドアをたたきました。金持ちはドアを開けて、彼らを疑いの目で見て「あなたたちは、いったい何をしに来たのですか?」と尋ねました。天使アズラエルは謙遜に答えました。「私たちは旅行中の者です。外はとても寒くてお腹もすいています。今夜泊まる所がないので、もしよろしければ1晩泊めていただけないでしょうか」。すると金持ちは「生憎ですがこの家はお客様を泊め場所がありません。荷物でいっぱいですから。外のガレージなら使って貰ってもいいですよ。しかし、邪魔にならないようにお願いしますね」と冷たく言って、金持は彼らに何も与えずにドアを固く閉じました。

 天使たちは金持ちが使ってもいいと言った外のガレージで寝る場所を作り始めました。しかしアズラエルはガレージの隅の地面に穴があることに気付いて、その穴を埋めました。それを見た天使マナエルは「なぜこんなことをするのですか?」と尋ねました。外観は私たちを欺くことができます」と天使アズラエルは答えました。

 次の日、二人の天使は泊まるために今度は貧しい家族の所に遣わされました。彼らがドアをたたいた途端、夫妻がニコニコした笑顔でドアを開けました。そしてすぐに「さあ、早く中にお入りください。外はとても寒いですから、遠慮なく中に入って私たちと一緒に食事でもしてください。とにかく体を温めて下さい」と誘いました。二人の天使は喜んで家の中に入れてもらい一緒に食事をいただきました。食事が済んで天使たちが寝る場所を探していると、この夫妻は「狭くて申し訳ありませんが、よろしければどうぞ私たちのベッドを使ってください。ご心配なく私たちは今夜、隣の牛小屋で寝ますから」と言いました。

 二人の天使が翌朝起きると、大きな声で泣いている夫妻を見て驚きました。彼らの大切にしていた唯一の牛が死んでしまったからです。なぜなら、この牛の乳はこの貧し夫妻の生活資金だったからです。それを見た天使マナエルはとても怒ってアズラエルを咎めました。「私はあなたの態度が全く分からないです。昨日あのケチな心の冷たい金持ちのガレージに空いていた穴は埋めて直したのに、この親切な貧しい夫妻には何もしないのですか。この夫婦は私たちと共にすべてを分かち合ったではないですか。なぜ彼らの大切な牛を助けなかったですか!」と叫びました。そこで、天使アズラエルは静かに答えました。「外観は私たちを欺くことができます」と。

 「一昨日はガレージの隅の穴を見て、中に宝箱が隠されていることに気が付きました。あの悪い金持がそれを絶対に見つけないように、その穴を埋めました。しかし昨日はあなたが寝ているうちに死の天使が来て、夫の妻を無理に連れて行こうとしました。それを見て私は妻の代わりに牛の命を死の天使に引き渡したのです。ですから言った通り「外観は私たちを欺くことができます」と天使アズラエルは説明しました。

 神のそばに戻って二人の天使は地上での出来事を詳しく説明しました。すると、神は金持ちの家に稲妻を落として火事で焼いてしまいました。そして金持のガレージの隅にあった宝箱を移動させて、貧しい夫妻の大切な牛の居た場所に置き、その宝箱を見つけるようにしました。天使マナエルは、富んでいる人を低くし、貧しい人を高められる神の正しさを褒め讃えました。そして仲間のアズラエルの知恵からも「外観は私たちを欺く」という大切な事を学びました。

 神は摂理を通して私たちの幸せを作り出します。神のやり方はしばしば私たちが望んでいることや期待とは違う方向に行ってしまう気がします。神が教えた通り「神の思いは、私たちの思いと異なり、神の道は私たちの道と異なる。天が地を高く超えているように、神の道は、私たちの道を、神の思いは私たちの思いを、高く超えている。」(参照:イザヤ5, 8-9)のです。ですから、神の手に自分の希望や期待をすべて委ねるなら、神は安全で確かな幸せを私たちの手に与えるに違いありません。

*************************************************************

うぬぼれ屋の金持ち


 トルコに住んでいる金持ちで。うぬぼれ屋のオマル・ラマジャラメケルは、人々を馬鹿にしたり、だましたり、辱めたり、迷惑をかけたりすることが大好きでした。次のようなことをするのがこの金持ちの幸せでした。自分は金持ちだから当然尊敬されるべき者であると思い込んで、自惚れ屋のオマル・ラムジャメケルは町の道を堂々と歩いて自分をよく見せることが大好きでした。歩きながら人の注目を引くために、着ている立派な服に付いてもいない塵を落とす真似をしたり、お札がいっぱい入った自分の財布をわざと落としてそれを見せびらかすようにゆっくり拾ったりすることが彼の癖になっていました。

  ある時、混雑している町の市場でいつものようにわざと落とした自分の財布を拾おうとした時、「ブー」と誰にでもよく聞こえるような大きな音でおならが出ました。ちょうどその時、機会を狙っていた泥棒がオマル・ラムジャメケルの財布を拾って一目散に逃げました。彼のおならの音を聞き、財布を拾って逃げて行った泥棒の賢さを見て、市場の人々は皆大声で笑いました。笑い者になったオマル・ラムジャメケルは、恥じ入ってその日から二度と財布を落とす真似はしなくなりました。

  別のある日、物乞いをしていた貧しい人を見て、オマル・ラムジャメケルは彼に近寄りました。物乞いの人は彼から何か貰えるのだろうと思っていると、オマル・ラムジャメケルは物乞いに尋ねました。「あなたにとって私はどんな者だと思いますか?」物乞いの人は、この金持ちを見てたくさんのお金を貰うために嘆願の目で彼を見て、上手にお世辞を言い始めました。「どんな方よりもご立派で、その評判も高く、その寛大さもよく知られています。このような貧しい私に目を留め、お声をかけてくださったことも何かのご縁です」と言いました。「そうですか。じゃぁ、これで十分でしょ。あなたは私にとって全く値打ちのない邪魔な者なだけです」と言って、金持ちは笑いながら去って行きました。


 また別のある時に、結婚式に誘われたオマル・ラムジャメケルは隣の村に行くために険しい道を通らなければなりませんでした。村人は普通ロバに乗って村を目指していました。そこで彼はロバを借りるためにロバを貸す人の所に行きました。ロバを貸す人は金持ちに忠告しました。「このロバは特別なロバです。キリスト教の修道院で飼われていたので、聖書の言葉しか理解できません。ですから、歩かせるためにはロバに『アレルヤ』と言ってください、ロバを止めるためには『アーメン』と言ってください」。それをいい加減に聞いていた金持ちは「バカバカしい!何がキリスト者のロバだ!私は神を信じない、聖書も無視する。でも、このロバは貸してください」とオマル・ラムジャメケルは願いました。彼は借りたロバに乗って「アレルヤ、アレルヤ」と繰り返したので、ロバは急に猛スピードで走り出しました。隣村に行く険しい道の先には深い崖があったので、落ちることを恐れた金持ちはロバを止めようとしましたが、その言葉を忘れてしまったのでとても焦りました。彼は今までに聞き覚えている聖書の言葉を手当たりしだい色々と言ってもロバは、走り続けました。「神様、助けてください、お願いします。アーメン」とパニックに落ちった彼は大声で叫びました。ロバは「アーメン」と聞いたので、すぐに止まりました。それは崖の縁の直ぐ手前でした。危険から救われたオマル・ラムジャメケルは安心して「神様、良かった、アレルヤ!」と叫んでしまったので、ロバは「アレルヤ」を聞いて走り出し崖から落ちてしまいました。

 高慢な人は自分が誰よりも偉いと思い自分だけで満足するので人々を無視して彼らを必要としません。自惚れ屋の人は、反対に人々の注目を集めるために彼らを必要とします。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」(参照参:ガラテ6,3)と聖書は教えています。幸せになりたい人は高慢と自惚れを避け、慈しみと愛をもって人々の喜びと悲しみを共に分かち合うのです。ありのままに皆と一緒に生きることだけが本当の幸せを引き寄せます。

**************************************************************

主任神父の悩み

 ピコロ司教は堅信式を行う予定のベルギーの小さな教会の主任司祭司教館に来るように言いました。二人が話し合いを予定した日、主任司祭は司教と教会の色々な問題を話しました。特に子どもたちに対する自分の悩みを打ち明けました。「司教様、私はとても恥ずかしいです。カテキズムを教える時、子どもたちは私の話をよく聞いてくれますが、私は子どもたちがどのようにそれを理解したかを知るために皆に質問します。ところがここからが問題なのです。大抵の子どもたちは今教えて覚えたことを無茶苦茶に答えるのです。もしかしたら子どもたちはわざと知らない振りをしているのでしょうか。分かっているのか、分かっていなのか、判断出来ずに困っています」と相談すると、司教は興味を示しもっと具体的に話すようにと言いました。

 例えば、私が子どもたちに「皆は食事の前にお祈りをしますか」と聞くと、一人の子が「いいえしません。だって僕のお母さんは料理が上手だから、お腹に悪いようなものを食べる危険性はありません」と答えました。他の子は「毒を飲んでも、決して害を受けない(参照:マルコ16,18)とイエスが約束したから、祈らなくても大丈夫ですよ、神父様」と言いました。またある時には、人間の創造について質問すると、ある子どもは「神様は男性を創造した時は、とても元気で嬉しかったのですが、女性を創造した後にはとても疲れて、何も考えられずに呆然となってしまい、疲れて次の日まで休みました」と、言うのです。きっと父親が話していたと思われることを答えたのだと思います。これを聞いた司教は、大笑いをしました。


 主任司祭は次のような例も出しました。「このことは笑うことなのか泣くことなのか、私には分からないのですが、司教様聞いてください。神は人を塵で造ったことをよく理解している女の子が私に大真面目で小声で打ち明けてきました。『実はね、神父さま。私は今朝、自分のベッドの下を見てみました。するとそこにはたくさんの塵が残っていました。もしかしたら、誰かが生まれるのでしょうか、あるいは生まれてすぐどこかに出て行ったのでしょうか、私には解りません。私は残っている塵で何をすればいいのでしょうか』と真剣に質問するのです。また別の時に、預言者エリアのいけにえの仕方について話した時、一人の男の子が「僕はエリアがほふられた牛の肉の上にたくさんのお水を注いだ理由を知っていますよ。それは肉汁をつくるためでしょ」。それを聞いた司教はまた大声で笑いながら、「神父様、そういう事なら安心してください。今度、私が子どもたちに質問してみますから」と約束しました。

 堅信の日、神父との約束通りにピコロ司教は子どもたちにカテキズムで習ったことを質問しました。司祭が洗礼を授ける時の言葉について、ある子が「『私は父と子と聖霊の名によって洗礼を授けます』と言います」と正しく答えました。他の子には、聖体についてイエスが言ったこと話すようにと質問すると「これを取って食べなさい、これは私の体です」と間違えずに答えました。それを聞いた司教は、子供たちはよく勉強していると安心しました。しかし結婚についてイエスが言ったことを質問された子どもは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と答えたのです。その答えを聞いた司教は、やっと主任司祭の悩みを理解し、人に気づかれるような諦めのため息をついてしまわないように気を使いました。子どもたちの変な答えの影響を受けたのでしょうか司教は、説教の時に次のように言いました。「女の人がペチャクチャとよくしゃべるからこそ、イエスは復活の良い知らせを早く大勢の人に知らせるために、先ずエルサレムの婦人たちに現れたのです」と。主任司祭はこの説教にビックリして苦笑いしました。そして彼はイエスの言葉を思い出しました。「子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(参照:マタイ183)と。その日から主任司祭は子どもたちの変な答えに対してもう悩まないことにしました。

 ユーモアーは人生を豊かに照らす太陽です。聖書の中は冗談とユーモアーで溢れています。神も笑います。「天を王座とする方は笑う」(参照:詩編2,437,13)。人のおかしな態度や言葉について笑うよりも、自分の滑稽な態度について笑うことは健康にとても良いことです。聖人とされた多くの人たちも良く笑いました。聖フィリポ・ネリ神父は特にいたずらをすることが大好きでした。ですから、今の厳しい時代の辛さを乗り越えるために笑うことを大切にしたいと思います。


***************************************************************

熱心すぎる主任司祭

 イタリアの小さな町に新しい司祭が任命されました。若いルチアーノ神父は前の教会で任として三年間年寄の司祭を手伝っていました。小さな町の主任になって、ルチアーノ神父はとても嬉しいでした。と言うのも、福音宣教を自分のやり方で熱心にできるからです。前の教会で手伝っていた年寄の神父は、現代的な便利さを好みませんでしたので昔からのやり方のままでした。ルチアーノ神父は、主任として任命された町に新しい息吹を吹き込むために色々と働きました。自分の若さが子どもたちや青年たちを教会に引き戻す機会になればとルチアーノ神父は望んでいました。しかし、二年経っても教会に集まる信者たちは、お爺さんやお婆さんたちばかりでした。

 そこでルチアーノ神父は考えて町を歩いて買い物をしながら、人々に挨拶をして人間関係を結ぼうと思い、町の人々に優しく声をかけました。しかし、教会に集まる人たちの数は増えませんでした。ルチアーノ神父はそれでも諦めずに今度は、熱心に一か月間、朝と夕方に駅の改札口で人々に自分のブログやフェイスブック、YouTubeの自分の動画のチャネルやTic-toc(ティックトックのウェブサイト)、インスタグラムなどのリンクを書いたパンフレットと教会案内のチラシを配りました。それでも全く効果がありませんでした。洗礼を願う人や聖書の勉強を望む人、教会の活動に参加したい人は全くいませんでした。考えられるあらゆる手段を使ったルチアーノ神父の工夫も苦労も全く実を結びませんでした。

 気がふさいで元気がなくなったルチアーノ神父は、絶望に陥らないために隣の町の修道院の有名なブラー・マルチノを訪れました。ルチアーノ神父は彼に自分の悩みを打ち明けました。「私は朝早くから夜遅くまで、宣教のために一生懸命にあらゆる可能性を捜し求めました。現代のコミュニケーションやメディアを利用しました。しかし、すべて何の効果もなく無駄でした」と。ルチアーノ神父の説明を聞いたブラー・マルチノは急に「あなたは、良く祈りますか」と尋ねました。「えっ、そう言えば、コンピュターやインターネット、他のウェブの仕事で忙し過ぎて、祈る時間がありません。教会の聖務日課の祈りもしていません」と正直に答えました。「そうですか。では、はっきり言いますが、あなたの苦労が実を結ばない理由はそこにあるのでは・・・。あなたは自分のために働いています。あなたの福音宣教の活動はとても立派で、皆の役に立ちます。しかし、あなたは自分の利益や名誉を目的にしています。神父様、あなたは神と神の栄光のために全力を尽くすべきです。ところで、私の助言は厳し過ぎますか。しかし、教会の聖務日課の祈りをするなら、詩編が教えていることによって自分の大きな間違いが分かるでしょう。『主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み、しょうりょしてパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか』(参照:詩編127,1-2)と。聖ベネデックトも同じことを私たちに教えています。『どのような善い行いを始めるにあたっても、神がそれを完成に導いてくださるように、心を尽くして祈りなさい』(参照:聖ベネデックトの戒律、序文4)と」、そうブラー・マルチノは言いました。

 ルチアーノ神父はこれを聞いて、大いに反省しこれからは人々に出会う前に、まず時間を作って神に祈ることに決めました。祈り始めて数日後、洗礼を望んでいる一人の人が、ルチアーノ神父が住んでいる司祭館を尋ねて来ました。そして、日曜日のミサには長い間教会を離れていた人々が少しずつ戻って来ました。

 私たちはルチアーノ神父に似ているのではないでしょうか。「忙しい。忙しいと言って、祈る時間を忘れてしまいます。神と共に神の助けを受けて生きるのでなく、自分が決めた目的を目指して勝手に自分のために生きるのです。イエスは忠告しました。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」(参照:ルカ428-30)。神に根を下ろすための祈りが私たちの人生の土台であり、必ず成功する保証でもあります。祈りのない苦労は無に等しいものです。

**************************************************************

兄弟げん

  二歳違いのマリオとルチオはお互いに愛し合って、とても仲の良い兄弟でした。二人は小さな川の左側と右側に住んでいました。しかし、川を渡るための橋はとても遠く離れていました。他界した両親が彼らに残した遺産は、この川の両側にあった二つの広い畑でした。昔からこの二つの畑には、それぞれに立派な家が建てられていたので、二人は仲良く別々の家に住むことに決めました。この二人の兄弟はいつも互いに助けあって畑の仕事をしていました。近所の人々は二人仲の良いのを見てとても驚いていました。実際マリオとルチオは畑を耕す時も、種を蒔く時も、収穫も一緒にしてすべてを分かち合っていました。また必ずどちらかの家で週毎に当番制で昼と晩の食事を一緒に食べてから、それぞれ自分の家に戻る習慣がありました。

  ある日、意見の違いから小さな揉め事が起こり二人は大喧嘩をしました。仲の良かった二人にとって、初めて経験する喧嘩だったので二人共大きなショックを受けそれを乗り越えることがなかなか出来ませんでした。二人はお互いに喧嘩の理由になった自分の言い分を心に閉じ込めてしまい閉ざしていたので、お互いの愛は時間が経つにつれ怒りと憎しみに変わってしまいました。二人はそれぞれ自分の家に閉じこもって、相手を見ることも話し合うことも避けていました。時間が経つにつれてマリオとルチオは赦せない敵になってしまいました。

 ある日、「何でもしますので何か仕事を下さい」と言って仕事を探している人がマリオの家を訪れました。この人は、「私は何でも出来ます」と言ったので、マリオはそれを聞いて次のように言いました。「私はこの川の反対側に住んでいる大嫌いな兄と彼の家をもう二度と見たくないのです。兄が死ねばいいと思っています。あなたが何でも出来るのなら、ここにある石のブロックで二メートル位の高い壁を作って貰えないでしょうか。あなたが仕事をしている間、私は旅行に出かけますから私がいない間は私の家を自由に使ってください」と言いました。「はい、かしこまりました」とこの人は答えました。マリオが旅行に出かけると直ぐに彼は仕事を始めました。


 2週間後、マリオは自分の家に戻りました。彼はびっくりして声が出ませんでした。というのは頼んだはずの高い壁の代わりに、立派な橋が川にかけられていたからです。「この橋はどうしたのだと」とマリオが聞こうとした丁度その時に、川の反対側から兄のルチオが自分の家から出て来ました。ルチオはマリオに向かってこう言いました。「マリオ、あなたは本当にいい弟です。私たち二人はお互いに相手を赦せない喧嘩をしたのに、仲直りのしるしとしてこの便利な橋を造ってくれました。なんて素晴らしいことでしょう。私はあなたが大好きです。もう二度と喧嘩はしません。ごめんなさい、こんな私を赦してください。私もあなたを赦します」と泣きながら言いました。その言葉を聞いて感動し興奮したマリオは、泣きながら兄のルチオをぎゅっと抱きしめました。

 仲直りをした兄弟を見て、橋を造った人は安心して自分の道具を拾って次の所に出発しようとしました。二人の兄弟が声を合わせて「どうか行かないでください、ここにはあなたの仕事がたくさんがありますので・・・」と彼に言いました。しかし彼は「お二人のお言葉はありがたいですが、私の仕事は終わりましたのでこれで失礼します。私は人々の間に橋をかけるために他の所にも行かなければなりません」と答えて、急いで出発しました。

 兄弟喧嘩や夫婦喧嘩、或いは他のどんな喧嘩も人の生きる状況を悪くします。赦しがない限り、お互いの間に立ちはだかる高い壁のように乗り越えられない問題が起こり続けるのです。頑固な態度で自分を閉じ込めるよりも赦しの泉であり、神と人間の間のかけ橋となったイエスは早めに赦し合うことを勧めています。「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない」(参照:マタイ5,25)と。赦しは受けた傷を癒しながら平和をもたらす貴重な恵みです。赦しは喧嘩や憎しみ、戦争等のあらゆる種類の悪に打ち勝ちます。受ける赦しも、与える赦しも、人々との出会いを豊かにし、人々を仲直りさせるために絶対に必要なかけ橋です。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

3人の泥棒の宝物

 インドに住む三人の大泥棒が有名なマハーラージャの宝箱を上手に盗みました。彼らはその宝箱がとても珍しく高価で貴重な宝箱だと解りました。困ったことにそれを直ぐにお金に換えるのは、とても無理だと悟りました。盗んだ宝箱を暫く誰かが持っておくことにしましたが、三人のうちの誰にその宝箱を預けておくかを決めることは出来ませんでした。なぜなら、三人の間に信頼関係が全くありませんでしたから。三人の泥棒は頭を寄せ合って相談した結果、その宝箱を銀行に預けることにしました。そして、一つ条件を付けました。「銀行の責任者の前に三人全員が揃って集まった時にしかこの宝箱を返して貰わない事」と言う条件で、彼らは銀行と契約を結びました。

 暫くの間、三人の泥棒はあちらこちらで色んな物を盗んでは、それをお金に変えていました。そのうち盗んだものが自分たちの家から段々と溢れてきたので、それを隠すために大きな家を買うことにしました。あちこち探してやっと適当な大きさの家を見つけました。それを買うためには銀行から宝箱を出すことが必要でした。そこで三人全員揃って銀行に行きました。三人の泥棒のうちで一番賢い泥棒が、二人の仲間に次のように勧めました。「ねぇ、ねぇ、提案があるんだけど。皆で銀行の奥にある金庫まで行かなくてもいいよ。銀行の入り口で私を待ってくれればいい、宝箱を返して貰ったら直ぐに戻って来るから」そう言いうと、二人が彼の意見に賛成したので、彼は一人で奥にる銀行の責任者に会いに行きました。銀行の責任者に事情を話すと、責任者は銀行の前で待っている二人を確かめ、三人全員が揃っていることを確認してから、賢い泥棒と一緒に金庫の所に行って、金庫の重い扉を開けて中の宝箱を取り出し泥棒の手に渡しました。すると、この泥棒は宝箱を持って急いで銀行の裏出口から走ってどこかに逃げてしまいました。

 

金庫の中に行った仲間の泥棒が、長い間待っていても帰ってこないので、騙されたことを悟った二人の泥棒は怒って銀行の責任者をなじりながら裁判所へ引っ張って行きました。「自分たちが騙されたのは、この責任者が銀行と結んだ契約を果たさなかったからです。」と言いました。確かにこの銀行の責任者は「銀行の責任者の前に三人全員が揃って集まった時」と言う条件を満たしてはいませんでした。裁判官は責任者を訴える二人を見て、昔彼らに盗みの犯罪に対して罰を与えたことを思い出しました。裁判官は泥棒の口から事情をよく聞いて、正しい判決を下しました。「銀行の責任者は結んだ契約を果しませんでした。しかし、宝箱の内容を彼は全く知りませんでした。ですから罰として1000万円を二人に与えなければなりません」と裁判官が言いました。それを聞いた二人の泥棒はとても喜びました。自分を騙した仲間を捕まえる日までに、見つけた家の代金の支払いにこのお金が助けになると思っていたからです。

 裁判官は話を続けました。「但し、銀行の責任者がそのお金を渡す時は、結んだ契約の通りにあなたたち三人が彼の前に集った時だけです」と言いました。実は裁判官は銀行の責任者の親しい友でした。賢い裁判官は逃げた泥棒が絶対に戻って来ないことや二人が失った宝箱は盗んだ物に違いないと判断して、友だちの銀行の責任者を守りながら、このような判決を下しました。がっかりした二人の泥棒は無言で裁判所を出て行きました。二人の泥棒は宝箱を持って逃げた仲間の泥棒をひどい目に合わせるために血眼になってインド中を探し、必ず彼を見つけると誓いました。

 「悪銭身につかず」という有名な諺があります。確かに盗みは災いを引き起こし、悪いやり方で得た金銭は無駄に使われてすぐに無くなってしまいます。完全犯罪などありません。人々を騙す人はいつか必ず自分の罠に陥ります。旧約聖書の創世記の物語は20年間ラバンヤコブを騙したことを物語っています(参照:創世記29,15-31,42)。しかし、同時にどのようにしてヤコブはここから利益を得たかも述べています。騙されないように賢く考えることや賢明に行うことが必要です。また「神は泥棒のように思いがけない時に来る」(参照:2ペトロ3,10、黙示録16,15)と聖書は教えています。ですから、いつも目覚めて、賢明になり、この神の訪れから素晴らしい利益を掴むために努力したいと思います。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
   
黒い鳥と白い鳥

 スペインのアルマンド神父は、カテキズムのクラスの子供たちに善と悪がもたらす影響について説明するために次の話をしました。「さて、皆さん、私の話をよく聞いてください。皆さんはたくさんの穴を持っている壁に似ています。この穴に白い鳥と黒い鳥が住んでいます。白い鳥は良い考えと良い言葉で白い穴に住んでいます。黒い鳥は悪い考えと悪い言葉で、黒い穴に住んでいます。この鳥たちは自分の色と合っている穴にしか入ることが出来ません。白い鳥は白い穴に、黒い鳥は黒い穴にしか入れません。それでは今から、ヨハネとヤコブの名前で二人の人は互いの敵だと考えましょう。

 ヨハネはヤコブに対して強く怒っていたので、彼に対して悪い考えを育てていました。すると自分の壁の穴から黒い鳥が出てきて、ヤコブの方へ飛んで行きました。しかしヤコブは悪い考えを持っていませんでしたので、今飛んでいった黒い鳥はヤコブの所で黒い穴を見つけることが出来なかったので、ヤコブに害を与えることが出来ずにすぐにヨハネの所に戻って来ました。そして何と運んでいた悪の束を全部ヨハネに吐き出しました。その結果、ヨハネの状態は以前よりももっと悪くなりました。もしヤコブがヨハネの怒りに対して直ぐに反応して悪い考えを生み出していたら、ヤコブも自分の壁から黒い鳥を放ったでしょう。するとその鳥はすぐヨハネの(から)になった黒い穴に入り、同時にヨハネの黒い鳥もヤコブの空になった黒い穴に入ることが出来て、この二羽の黒い鳥が自分の悪の毒をヤコブとヨハネの心にゆっくり注ぎ始め、時間をかけて二人の互いの恨みはますます大きくなっていったでしょう。

 皆さんも知っている諺の通り「悪はそれを送った人に戻って来る」ので、破壊の仕事が終わったら二羽の黒い鳥は必ず自分の巣に戻って来ます。その結果、二人は敵が送った黒い鳥と自分が放した黒い鳥の攻撃の的となって、ヨハネもヤコブ前よりももっと悪くなるのです。このように悪口や呪い、また恨みや復讐や悪い考えは、それを言い育てる人に必ず戻ってきます。勿論、白い鳥についても同じことが言えるでしょう。敵に対しての愛と信頼に満ちた言葉と考えが敵の心に入ることが出来ない時には、それらの言葉と考えは善と平和を運びながらすぐにそれを生み出した人に戻ります。良い心を育てるなら、敵の悪い言葉や考えの攻撃が来ても、決して害をもたらすことができません。

 さあ皆さん、私の話を理解したなら、皆さんはイエスが敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ること、敵を祝福すること(参照:マタイ5,44)と言ったことの大切さが分かるでしょう。もし君たちが幸せになりたいなら、自分の心を悪い考えや悪い言葉からよく守ってください。不正やいじめを受けても、落ち着いて心の平安をしっかり掴んで、善によって悪に打ち勝って欲しいです。皆さんは神の子どもたちです。決して悪魔の仲間になってはいけません」。そう言ってアルマンド神父はカテキズムのクラスをお終わりました。

さて、大人である私たちはアルマンド神父の話を聞いて、自分の今までの状態について少しでも考え直したのではないでしょうか。善は善を呼び起こし、大いに増やすのです。悪も同じように増えるのです。イエスは言いました「人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになります」(参照:マタイ5,16)と。また「あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全なものとなりなさい」(参照:マタイ5,48)と、これこそ私たちの毎日のチャレンジではないでしょうか?
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


嘘の世界

 ―第1の話―

 ある金持ちの実業家が、アフリカの小さな村へ行きました。その村の責任者と出会い、村人全員を集めるように願いました。この実業家はとても誠実そうな印象であったので、責任者は彼の願いに応えました。集まった村人の前で実業家は次のように説明しました。「私は1週間この村に留まります。ヨ−ロッパの動物園のためにサルを買いに来ました。一匹10ドルで買います。たくさんのサルを捕まえて、私に売ってください」と言いました。この地域にはたくさんのサルが群がっていたので、貧しい村人たちはすぐにサルを捜し始めました。たくさんの村人がサルを捕まえたので、瞬く間にサルの数は少なくなり、サルを捕まえることが難しくなりました。そこで金持ちの実業家は一匹のサルに支払う値段を20ドル、最初の値段の二倍以上にしました。しかし、村人たちがどんなに努力してもサルを捕まえるのは至難の業でした。それを見て実業家は、今度は一匹のサルに30ドルに支払うと約束しました。そう聞いた村人はもっと一生懸命にサルを探しても中々見つけられませんでした。

 約束の1週間が過ぎ、いよいよ出発の日の朝になり、実業家はもう一度村人を集めました。「私は本国に帰らなければならないのですが、私の助手にサルを買う責任を委ねました。今度私がここに帰って来る時にはサル一匹を50ドルで買うつもりです」と約束し、村から出て行きました。実業家が居なくなった後で、助手は村人に言いました。「もしお金持ちになりたいなら、ちょっとして儲け話があるんだがのるかい? 私はこの大きな(おり)に集めたサルを皆さんに35ドルで売ります。ですから私のボスが帰って来た時、彼に約束の50ドルで売ってください。私はボスに嘘をついて『集めたサルは檻をきちんと閉めていなかったので檻から逃げてしまった』と言い訳しますので、安心してこの檻の中のサルを買ってください。そうすれば、あなたたちが受ける利益はとても多いですよ」と村人たちを誘惑しました。勿論、村人たちは35ドルを集めるのに必死でした。サルを村人たちに売ってから、助手はお金を持ってさっさと逃げてしまいました。勿論、彼も共犯のお金持ちの実業家もこの村には二度と戻りませんでした。

―第2の話―

 長男の(ひろし)の両親はとても悩んでいました。彼はずっと嘘をついていました。また真理に嘘を結び付ける癖がありました。彼の癖を直すために、両親は嘘を見破る機械を買いました。この機械を使えばきっと博は真実を話せるようになると彼らは思い込んでいました。ある日の午後、息子の博が学校から帰って来るのがとても遅かったので、両親は早速嘘を見破る機械を使うことを決めました。博が家に帰ると父は彼にその機械のそばに座るように言いました。博は少しびっくりしましたが言いつけ通りに機械のそばに座りました。「どうして今日はこんなに遅かったのですか、何をしていたのですか、理由を教えてください」と父は尋ねました。「私は図書館で勉強していました」と答えた途端、その機械は「ブー」という音をたてました。「嘘をつくな、正直に言いなさい。何をしていたのですか・・・」と父が尋ねますが「ごめん、ごめんね、実を言うと(ぼく)は友だちと一緒に明日の勉強の準備をしていました」と博は答えました。すると機械がまた「ブー」と鳴りました。父は声を大きくして「本当の事を言いなさい!」と叫びました。父の怒りを恐れて博は「実は僕は友だちと一緒に誰もいない空きビルの中で密かにタバコを吸っていたのです」と恥ずかしくなって告白しました。今度は嘘を見破る機械は音を出しませんでした。すると父は「私はあなたの年令でアルコ−ルは飲まなかった、勿論タバコも吸わなかった」と言うと、直ぐに機械は「ブー」と鳴りました。それを聞いた母は笑いながら次のように言い出しました。「二人はよく似ているわ。この父にしてこの子あり、博は確かに父さんの息子ですよ」と言いました。すると機械は「ブー」という音を聞かせました。

 最近コロナの影響で経済的にひっ迫している人が多いです。人を騙してお金をもらうことは現代の問題です。普通、人は自分を守るために嘘を作ります。特に病気の人にその病気の重大さを隠すために医者も親戚の人たちも正直に話さないようにの説明をし、無駄に病人に不安を持たせないように努力します。「サタンは偽りの父である」(参照:ヨハネ844)ことを聖書は教えていると同時に「キリストは真理の道である」(参照:ヨハネ14,6)ことも教えています。嘘の世界で生きている私たちは時々ピラトの質問を思い起します。「真理とは何か」(参照:ヨハネ18,38)と。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

移動する花崗岩のブロック

 武術で有名なある先生は、病気のためにもう長くは生きることが出来ませんでした。そこで自分の弟子の中から英雄君と呼ばれている一番優れた弟子に自分の武術の責任を引き継がせようと考えました。先生はこれについて英雄君には何も言わずに、他の弟子たちにひそかに自分の考えた計画を打ち開けていました。弟子たちに秘密を守ることと、自分を手伝うことを約束させました。と言うのも、先生はどうしても責任を引き継がせる前に英雄君に最後の試練を与えようと決めたからです。ある夜、英雄君が自分の家で寝ている間に、先生は他の弟子たちの助けを借りて武術の練習をしている部屋の真ん中に大きな重い花崗岩のブロックを運びました。

 次の朝、英雄君が来たとき、「お早う英雄君。今日は特別な練習があります。日が沈む前に、この花崗岩のブロックを部屋の真ん中から入り口のドアまで移動させてください。但し、一つ条件があります。あなた自身が持っている力だけを使ってください」と先生は説明しました。「えぇ・・・、そんなことは無理ではないですか」と英雄君は答えましたが、先生は「はい。確かにそうかも知れません。でもあなたが持っている力を尽くして、言われたとおりにこのブロックを移動させてください」と先生は念を押しました。

 花崗岩のブロックをジッと見てよく考えてから、英雄君はそれを動かそうとしましたが、このブロックは重過ぎてやはり動かすのは無理でした。少し考えて、英雄君は部屋の奥の押し入れに行って、鉄のテコを取り出しました。しかし、テコを利用しても、ブロックを動かすこと無理でした。ブロックの形が複雑だったので、ゴロゴロと転がすことも不可能でした。だんだん英雄君は悲しくなってきました。そして諦めようと考え始めたその時に、先生が部屋に入って来ました。真剣な顔つきで今にも泣き出しそうな英雄君を見つめて、先生は彼に言いました。「あなたは、鉄のテコを使ったでしょ。それはあなた自身の力ではないですね。さぁ座って、ゆっくり考えてください。あなたならきっと出来ると信じていますよ」と先生は励ましの言葉を英雄君に言ってサッサと部屋から出て行きました。

 長い時間が経ちましたが英雄君はいい工夫をみつけられませんでした。彼は花崗岩のブロックを見てイライラして、武術の練習をする部屋の中を歩き回りました。それを見ていた先生は、夕暮れにならないうちにもう一度部屋に入ってきました。先生の顔を見た英雄君は複雑な気持ちで泣きながら「先生、ごめんなさい。何も出来ませんでした。頭が空っぽで、何も想像できません。本当にごめんなさい」といいました。先生は優しく英雄君の心を指さして言いました。「あなたはここにたくさんの力を持っています。どうして私の助けを願わなかったのですか?あなたが心を開くなら、すべてを動かすことが出来ます。心の力を尽くしてください」と先生は英雄君を誘いました。「えっ!先生は私を助けることが出来るのですか?」と尋ねた英雄君に「はい。勿論できますよ」と言って先生はポケットから笛を出して、口にててピッと音を出しました。部屋の近くに隠れて待っていた他の弟子たちは笛の音を聞いた途端に武術の部屋に急いで入りました。そして皆は笑いながら一緒に大きな花崗岩を入り口のドアまで移動させました。「英雄君、今日からはあなたは私の後継者です。この教室の武術の責任者として、あなたにすべてを譲ります。皆もあなたの指導を受けるのに賛成してくれています。先生になっても他の人の助けなしには、何も出来ないことを絶対に忘れないでください」と先生は言いました。そして心からの拍手を送りながらすべての弟子たちが英雄君を新しい先生として歓迎しました。

「人が独りでいるのは良くない」(参照 : 創世記2,18)「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(参照:ルカ17,6)と神は教えています。私たちは複雑な問題と出会う時にそれを一人で解決できると思い込んでいます。人の助けを願う事は恥ずかしいと感じているから結局何もできずに、イライラし始め、泣いたりあるいはまたひどく怒ったりして最後には絶望してしまいます。やはり、人は一人で試練を乗り越えることは出来ません。フランスの諺が教えている通り「団結は力なり」です。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

昼と夜、光と暗闇の分裂

 ある年寄りの神父が3人の青年に次の質問をしました。「夜が終わり、昼が始まる時を知る方法を知っていますか」と。「それ僕、知っているよ。フランスの昔の言い伝えによれば、それは人が遠くから犬と狼を見分けることができない時だ」と一人の青年が答えました。「だったら、それはランプを灯す時じゃないの?」ともう一人の青年が言いました。「そうだよ、それはきっと教会の鐘が夕の祈りの時間を知らせる時だよ。きっとそうに違いないよ」と三番目の青年が言い出しました。「いいえ、違います。誰かの顔を見ながら、その人を自分の兄弟、また姉妹として認める時こそ、夜と昼、暗闇と光の裂け目が現れます。それがない限り心は暗闇に残っています」と年寄り神父は教えました。

 意味が解らずにポカンとしている青年たちに良く理解させるために、神父はたとえ話を語りました。「私たちは次のたとえ話の人によく似ています。商売のために車で出かけた人が、人里離れた所で車のタイヤがパンクしました。彼は車のトランクを開けましたが必要なジャッキが見あたりませんでした。こんな人里離れた所に誰も来ないと思い、隣の町までジャッキを手に入れるために歩き出しました。歩きながら彼は色々な不安が生れてきました。「もし誰も助けてくれなかったらどうしよう」、「ジャッキを貸してくれる人がいるかなぁ・・・、もしかしたら私に高く売りつけるのではないかなぁ・・・」、「この町の人々は知らない人を恐れて嫌がるではないだろうか、無視されるかも知れない・・・」と次から次へと彼の頭の中で暗い想像がどんどん大きく育ちました。結局、町の教会の屋根を見るなり彼は「もういいや! 皆がそんな酷い、けちな人なら、ジャッキは要らない・・・」と叫んで急に自分の車を置いてきた所へ戻ってしまいました。この話からも解るように、結局人々に信頼を示さない限り、私たちの心は暗闇に囲まれて、光をなかなか受ける取ることができません」と説明しました。

 青年たちはこの話を聞いて、神父が教えたいことが少し解ったと言いました。しかし、彼らはそうでありませんでした。彼らの心を素早く見抜いた神父は次の質問をしました。「もし、夕焼けの時、畑の草の中で動かずに座っている私を見たら、君たちは私が何をしていると思いますか。それぞれの考えを言ってみて」。青年の一人は答えました。「きっと神父様は今日った出来事や出会った人々の事を思い出して、明日のことについても考えているだろうと思う」と一人の青年が言いました。「たぶん、神父様はこの静かな所で誰かを待っているのだろう、友だちとか約束の人とか」ともう一人の青年が言いました。「僕、分かったよ。神父様はいつもの通りその畑の草の中に座って祈っているんだよ」と三番目の青年は言いました。

 それぞれの答えを聞く度に神父は微笑んでいたので、青年たちは本当の答えを教えて欲しいと願いました。そこで神父は答えました。「畑の草の中で動かずに座っている私は、ただ静かに希望をもって、美しい夕焼けを仰ぎ見ているだけです。確かに、夕焼けも夜明けも、昼と夜が始まりまた終わることを教えています。しかし人間の私たちは起きていても、眠っていても自分たちの心に小さな光を持つことが大事です。この希望と信頼の光は私たちの人生に意味を与え、人生を照らしながら美しくします。希望と信頼の光がないところは、すべてに紛れています。分かりましたか。」青年たちは「はい」と声を揃えて答えました。

 聖ヨハネはこの話に似た教えを教えました。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」(参照:1ヨハネ2, 9-10)。また詩編の言葉によれば、神の愛の「光の内に私たちは光を見る」(参照:詩編36,10)ことができます。

 近づくクリスマスは私たちにこの光を豊かに与えます。星の光によってイエスのそばに導かれた占術学者のように、私たちも希望と信頼をもって、光の泉であり、私の兄弟である主イエスを捜し求めて急ぎましょう。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」(参照:ヨハネ12,35)と、イエスは勧めているのではないでしょうか。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

賢明な教育

 イタリア人のアンジェロは自分の10歳の息子ペピトが立派な人間になるためにいつも新しい教育の方法を考えていました。アンジェロの妻は夫のやり方について不安を抱いていましたが、彼のやり方は効果的であることを少しずつ分かったので、ペピトの教育を任せました。ペピトが12歳になった時にアンジェロは息子のために大人への特別な通過儀礼を考えました。

 ある夕方にアンジェロはペピトを隣の森へ連れて行き、空地に着いた時に息子の目に布で目隠しをました。そして息子を古い木の幹に座らせて「ペピト、よく聞きなさい。明日の朝まで一人でここに居なさい。どんなことがあっても絶対に目隠しの布を外してはいけません。しかし、明日の朝5時頃になって太陽の光線を感じたら目隠しの布を外してもいいです。おめでとう。その時こそ、あなたは子供ではなく大人になったのです」と息子に説明しました。

 ペピトは夜中に一人ぼっちで森の中に残ることを恐れていましたが、父の言うとおりにしようと決意しました。なぜなら、ペピトは自分の父に対して強い信頼を持っていたからです。目隠しをしているので何も見えないペピトは、最初はとても不安で色々な音がとても不気味に聞こえました。しかし、森の様々な音は時間が経つに連れて少しずつ慣れてきて、微妙な音を聞き分けられるようになってきました。枝の間に吹く風の音、フクロウの鳴き声、夜に動物が動く音など、耳を傾けていると色々な音を聞き分けるゲームのように思えてきました。ペピト初めに感じていた不安はすっかり消え、いつの間にか森の色々な音が子守歌の様に聞こえ、心地よく音にあやされて知らないうちに静かに眠ってしまいました。

 やがて朝の太陽の光線が優しく彼の体の上に注がれ、ペピトは目を覚ましました。目隠しの布を外すと自分のすぐそばに父が座っていました。ペピトはびっくりしました。「ペピト、私の可愛い息子よ。お前はとても偉い、父さんは感動したよ。実は私は夜どおし近くにいてお前の動きを見張っていたが、お前は一度も目隠しを外すことをしなかった。むしろ森の様々な音に興味深く反応して聞こえてくる音を聞き分けていた。私はお前を自慢したいよ。我が息子よ、お前は立派ないちにん前の人間、真の大人だ」と言いながら目から溢れ出た幸せの涙を拭きました。

 数日後アンジェロは平和について考えるようにペピトに二枚の油絵を見せました。一枚の油絵は、青空に白い雲が浮かび、緑の山に囲まれている壮大な湖が描かれた油絵でした。もう一枚の油絵は、夜の嵐の中の険しい山から湧き出る強い滝の描かれた油絵絵でした。ペピトは2枚の油絵をゆっくり細かく見てから、父に険しい山の油絵を渡しました。「これこそ平和をよく示す油絵です」とペピトは言いました。父は「どうしてだい?」と尋ねました。「はっきりとは見えないけれど、この滝のそばに茂みがあり、そこで母鳥が巣を作っています。この母鳥は嵐に耐えながら自分の羽の下に居る雛たちを命がけで守っています。これこそ平和を現わしていると、ぼくは思います」。「そう、その通りだよ。戦争と暴力に満ちた世界では、物理的な安全と政治的な調和は、必ずしもここで問題となっている平和を反映しているわけではないのだよ。平和は静かすぎる状況の中にはないのだ。平和は困った状態の中にあって、静かさを保つ心の中にあるのだよ」と、興奮しながら父アンジェロは腕にペピトを抱きしめながら言いました。

 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

無人島の一人暮らし

 冒険旅行が大好きなデュボネさんは一人で太平洋に出かけました。彼は6か月位の冒険旅行を予定していました。希望に胸を膨らませて港を出航しました。2週間たったある、大嵐に巻き込まれて強い風と激しい雨の中で、高波に襲われデュボネさんの美しいヨットは沈没してしまいました。幸いなことに、ヨットが沈んだ場所のすぐ近くに小さな無人島があること気がつきました。デュボネさんは嵐の中を必死に泳いで、くたくたになって島に辿り着きました。信仰深い彼はすぐ神に感謝しました。夜の暗闇の中で何も見えないデュボネさんは、朝の太陽が出ることを望みながら疲れ果てた体をバナナの木の元に横たえて眠ってしまいました。

 太陽が昇り一晩死ぬように眠ったデュボネさんはすっかり元気になり、島の探検に出かけました。この島にはバナナやココヤシ、マンゴーの木がたくさんあったので、デュボネさんは救助の船が来るまで十分な食べ物があることが分かりました。食べ物が十分にあることを神に感謝しながら彼は自分の住む小さな小屋を作り始めました。救助の船が来るまで長い間この島に暮らさなければならないとデュボネさんは感じていました。彼は自分が新しいロビンソン・クルーソーになった状態を面白いチャレンジとして受け止めましたが、彼の心の奥底には少し不安がありました。そいう訳でデュボネさんは神が早く救助の船を送るように一日、何回も何回も祈っていました。しかし、神はこの祈りにすぐには答えませんでした。

 救助の船が来るのを待ち望みながら、デュボネさんは沈没した自分のヨットの瓦礫や島の岸に流れ着いたボロボロになった自分の服や波が島に運んで来た物から役に立つ物を拾って、小屋に集めていました。数ヶ月が過ぎてもデュボネさんは揺るぎない信頼を失わずに祈り続けました、神は必ず自分の祈りに答えると強く信じていたからです。ある日、食べ物を探しに出かけたデュボネさんは、突然の雷雨に見舞われました。急いで自分の小屋に向かいました。しかし彼の小屋までまだかなりの距離があるところで、彼は稲妻が落ちるのを見ました。なんとそれは彼の小屋に落ち火事になり、小屋も中にあったすべての物も燃えてしまいました。一瞬の出来事にデュボネさんは絶望の淵に沈みました。大きなショックを受け、彼は生まれて初めて神に不満を言い出しました。「神様、どうしてこんな酷いことが私に起こるのを許すのですか。ひとりぼっちの孤独の中で、私はあなたに信頼をずっと示しました。毎日毎日あなたの救いと助けを願ったのに・・・」泣きながらデュボネさんは海の岸辺に崩れ落ちるように座りました。

 しばらくして、ふと頭をあげて海の遠くの方を見ると大きな船が島に近寄って来るのに気がつきました。無人島から煙が立っているのを見た船の長が、不思議に思って調べるために島に近寄って来たのでした。長は航海用の双眼望遠鏡で島の岸辺に座っているデュボネさんを発見しました。燃えた小屋の煙のおかげでやっとデュボネさんは救われました。自分が絶えず願っていたことを神不思議なやり方で叶えたことを理解したデュボネさんは、神に向って感謝とお詫びを何回も何回も言いました。

「人が一人でいるのはくない」(参照:創世記 2,18)と言った神は、みなしごやもめを守り助けるので(参照:詩編68,6、詩編146,9)、絶対に人を孤独の中に残すことができません。試練の中にいて、神に揺るぎない信頼を示す人を救うために神は何でもします(参照:詩編9,11)。思いがけない出来事が自分の生き方をひっくり返す時、人はそれを「不幸」あるいは「チャレンジ」とすぐに名付けます。楽観的な性格の人であっても、悲観的な性格の人であっても信仰があればすぐに神の助けを願います。「天は自ら助くる者を助く」とのことわざが教えている通り、人が示す熱意によって神は救いの手を差し出します。不平不満を叫ぶよりも試練を耐え忍ぶ方法を見つけることはとても大切です。またできれば一人よりも、他の人の助けを受けながら。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

役に立つ知恵

 ンドの小さな村良識のある人として知られているアッシドという人が住んでいました。ある日カルカッタへ行くために駅へ行きました。しかし汽車が満員だったので、アッシドは他の人たちと一緒に汽車の屋根の上に上って座りました。レールが古くて軋んでいたので、汽車はゆっくり進んでいたにも拘わらず強く揺れてアッシドの足が飛び上がった途端、彼の片方のサンダルが線路に落ちてしまいました。するとアッシドは残ったもう片方のサンダルを線路に投げてしまいました。それを見ていたアッシドの隣に座っていた人は「えっ! どうしてサンダルを投げてしまうのですか?」と尋ねました。アッシドは答えました。「だって、私は片方のサンダルでは全く役に立ちません。それにもし先に落ちたサンダルを誰かが見つけても、それもその人の役に立ちません。しかし、誰かが右左揃ったサンダルを見つけたなら役立つでしょう。だから私の足に残ったサンダルを線路に投げたのです。大丈夫です心配しないで下さい。裸足で歩くのは、私は慣れていますから」とアッシドは説明しました。

 またある時このようなことがありました。アッシドの村に大きな家に住んでいる金持ちの婦人が居ました。しかしこの婦人は自分の家が狭すぎると思い込んで、ずっと村の人々に不満と苦情を訴えていました。村の人々の家はとても小さかったので、どうして彼女が不満を言うのかまったく理解できませんでした。この様子を見て今まで黙っていたアッシドの頭によいアイデアが浮かびました。村人たちに婦人の家の中に自分たちの飼っている犬や猫、ロバや山羊、鶏などの動物を入れるように願いました。きっと面白いことになると思った村人たちは、アッシドの言うようにしました。村人たちは質素な生活をしていたので、たくさんの動物の群れを持っていませんでした。それでも村人たちから集めた動物は170匹の群れになりました。170匹の動物の群れを見て驚いて叫んでいる婦人を無視して、村人たちは集めた動物を無理やりに婦人の家に追い込みました、しかしまだスペースはたくさん残っていました。そこで今度は、村の子どもたちも入るようにアッシドは指示しました。なんとそれでもまだ、家の中にはスペースは残っていました。一連の様子をじっと見ていた金持ちの婦人は、恥ずかしくなってこう言いました。「解りました。本当に解りました。もういいです。私の家は大きいです、とても大きいです」と。

  また次のようなこともありました。勉強のためにカルカッタへ行ったある学生は、アッシドの住んでいる村に帰ったとたん、偉そうに自分のことを自慢して村の人を馬鹿にしていました。ある日、アッシドは一緒に船に乗って川の反対側にある村へ行くように学生に頼みました。彼はアッシドを馬鹿にするチャンスだと思ってこの誘いを受けました。船で座っていた学生は空を飛んでいた鳥を見て「アッシドさん、鳥のことを勉強していないあなたは人生の四分の一を失っていますよ!」と言い出しました。「はい、そうですか。私は鳥のことは知りません」とアッシドは素っ気なく答えました。暫くして学生は言いました。「川の魚はどんな虫を食べるかを知らないあなたは、自分の人生の四分の二を失っていますよ!」そう言うと「そうですか。私はそうは思いませんが…」とアッシドは単純に答えました。最後に学生は「この船が進む川の水がどこから来るかを知らないあなたは、自分の人生の四分の三を失っていますよ」と偉そうに言いました。そこでアッシドはわざと船が大きく揺れるようにしました。恐れた学生は「やめて、やめてくれ。俺は泳げないのだぁ…」と叫びました。アッシドは彼に言いました。「人を馬鹿にして偉そうにしているあなたが泳げないのなら、あなたは自分の人生の四分三どころか全てを失ってしまいます。あなたのした勉強が人の役に立たない限り、あなたのためにも役に立ちません」とアッシドは学生を咎めました。

 人の語る言葉や示す知識や態度、行いなどが他の人の役に立たたなければ、高慢や自惚れ、自己満足や差別を生み出すだけです。「答えられないために、黙っている者もいれば、時をわきまえて、黙っている人もいる。知恵ある人は、時が来るまで口をつぐむ」(参照:シラ書20,6-7)と聖書は教えています。人間は完全な者ではないので、良識のある人や賢明な人から教え導きを受けることはとても大切です。 自分の生き方が豊かで人の役に立つ実を結ぶことができるならば、それは最高だと思います。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

赤いバラの悩み

 ステファノスというギリシャ人はアテネの近くで一匹のロバと一緒に住んでいました。若い時、父から譲り受けたこのロバはとても強かったので「ヘラクレス」というギリシャ神話の有名な勇士の名を付けました。ステファノスは、このロバを自分の子供のように大切していました。しかし年が流れ、ある日このロバは老衰で死にました。悲しみに打ちひしがれたステファノスは、大好きなロバのために立派な墓を作りました。墓は小さな丘の形をしていて、丘の上にヘラクレスの像が置かれていました。そしてヘラクレスの像の周りに、ステファノスは赤いバラの木を植えました。毎日、仕事が終わってからステファノスは墓のそばに座って綺麗に咲いている赤いバラを眺めていました。

 近所の人々はこの墓をしばしば見に来て、ステファノスに話しかけ、ヘラクレスが生きていた時のことを話して昔を懐かしんでいました。特に皆は墓の赤いバラの美しさについてよく話していました。アテネの都を訪れる観光客たちは、ヘラクレスの墓に植えられている赤いバラの美しさを聞いて、写真を撮りに来ました。そのためにヘラクレスの墓はあっという間に話題となって、村の評判は高くなりました。

 ステファノスは、このヘラクレスの墓を丁寧に掃除しながら赤いバラの木を大切に手入れしていました。ある日バラの木の根元に大きなヒキガエルが住んでいることに気づきました。この気持ちの悪いヒキガエルの色と大きな目は、きっと訪れる見物人を恐れさせるとステファノスは考えました。このヒキガエルのせいでヘラクレスの墓の評判も悪くなると思ったステファノスは、このヒキガエルを殺してしました。

 ところが暫くすると墓の赤いバラは美しさを失い始めました。先ず、バラの葉っぱが傷み枯れ始め、ついにはバラの花びらも落ちてしました。すると、あっという間にヘラクレスの墓の魅力的な美しさは消えてしまいました。大きなショックを受けたステファノスは、理由が理解出来ずに呆然として打ちひしがれていました。そんなある日、村の司祭がヘラクレスの墓の近くを偶然通り過ぎました。バラの木の状態を見て、彼はステファノスに言いました。「このバラの木はたくさんのアリと毛虫に覆われていますね。このバラの木の近くにヒキガエルを置いてやれば、バラは元気になるに違いありません。というのも、私の司祭館のバラは三匹のヒキガエルのお陰でとても綺麗ですから。良かったら一度見に来てくださいなぁ。私の所には3匹のヒキガエルが居ますから一匹差しあげましょうか。きっと、あなたの赤いバラも美しく咲くと思いますよ」。それを聞いたステファノスは自分のおかした過ちを認め、司祭の勧めに従いました。すると、司祭が言った通りヘラクレスの墓のバラはもう一度綺麗な赤い花を咲かせて、村の評判を取り戻しました。やがて以前のように見物人たちも戻ってきました。

 暗闇があるから、花火の光は美しくなります。動物のフンで作った肥料のお陰でおいしい野菜や果物を収穫することができます。薬が苦いからこそ体が回復できます。往々にして私たちは気持ちの悪いもの、汚いもの、見たくないものを見て、そのものが存在する役割を考えずに、それをなくそうとする傾きを持っています。

 聖書は悪いものから良いものが出る事実を正しく教えています。「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(参照:1コリント1,28-29)。「十字架の愚かさは神の知恵を現しました」(参照:1コリント1,18)。またヤイロの娘の死(マルコ5,41-42)、ナインのやもめの息子の死(ルカ7,10-15)はキリストが命の主であること啓示しました。神は悪を善にかえます(参照:創世記50,20)ので 醜いものを通して示されている素晴らしさや美しさを発見する恵みを願って、絶えず神に感謝しましょう。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


ブラザーマルコ


 フランシスコ会の修道院にブラザーマルコという修道者がいました。彼は大人しくて目立たない人で、修道院の仲間からは少し風変わりだと思われていて、彼が何も出来ないことをあざ笑う者もいました。と言うのも、ブラザーマルコは長年修道生活をしていても、詩編のメロディーや言葉を暗記で出来ないうえに、聖書の言葉を黙想することに対しては全く興味がありませんでした。また祈りの時にはあくびをして、すやすやと寝てしまったこともありました。しかし彼の祈り方は皆を驚かていました。というのは、ブラザーマルコは、アシジの聖フランシスコのように、何もせずに大自然を見て味わい、川のそばで長い時間を静かに過ごしていました。そこで彼は小鳥の歌声や昆虫の僅かな動き、清いせせらぎの流れる水の音を聞いていました。村の人々は、修道者たちと同じようにブラザーマルコは少し変わったおかしな人だと思っていました。

 ある日、ブラザーマルコが川のそばの古い大きな木の下に座っていると、近所の4人の悪戯っ子たちに囲まれました。彼らはブラザーマルコを見て次のように言いました。「やぁ〜い、マルコ。あなたは何もできない人だね。怠け者の様に何もしないで遊んでばかりいないで、真面目に祈ったらどうだい!」とあざ笑って言いました。ブラザーマルコは何も答えずに、立ち上がって何気なく川の中を見ると、川の中に落ちてもがいる小さな昆虫を見つけたので、近くにあった細長い枝で救ってやりました。それを見た子どもたちは笑いながら「昆虫を救うよりも、自分の永遠の救いにもっと熱心にった方がいいんじゃないかい?」と言い出しました。「君たちの言うことは正しい。しかし、わたしのすぐ目の前で命のあるものが水の中に沈んでいるのを見て、静かに祈ることなどできませんよ」とブラザーマルコは微笑んで答えました。この答えを聞いた、子供たちは言葉を失って急いて逃げました。

 ところが、逃げていた一人の少年が仲間に突き飛ばされて、滑って川に落ちました。悪いことに偶々落ち場所は川の特に深いところでした。少年は泳ぐことが出来なかったので「助けてくれ・・・!」と叫びました。仲間たちは恐怖で何をしたら良いのか解らずにオロオロするばかりで救いの手を出すことができませんでした。彼らも「助けてくれ・・・」と叫び始めました。この声を聞いたブラザーマルコはすぐ立ち上がって、落ちていた木の枝を持って、急いで少年の方へ走り寄りました。しかし、この枝は短くて少年には届きませんでした。ところが、ブラザーマルコは少年を助けたい一心で川の水の上を歩き始めていました。そして「早く、この枝につかまれ!」と叫びました。呆然としている子たちの前で、ブラザーマルコは泳げない少年を枝につかまらせて、川の岸の安全な場所まで引き上げました。

 この出来事は、当然話題になりました。人々にとってブラザーマルコは奇跡をおこなう聖人となりました。しかし、彼はこのように話題にのぼることに耐えられなかったので、修道院長に相談して、他の離れた修道院に移動することに決めました。

 人が自分と違うと言う理由で、その人の生き方をあざ笑い、批判し、軽蔑することは誰にとっても大きな誘惑になります。偏見をもって判断する癖を持つ私たちの方が哀れな者なのです。そもそも、そういうことが起こるのは、人の内に隠されている豊かさを見出すことができないからです。神はサムエルに「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(参照:1サムエル記16,7)と言いました。それぞれの人が心に持っている豊かさを見つけるように、私たちの見方や考え方を新たにすることが急務です。「水の上を歩く」ことよりも「自分のメンタリティーを変化させる」ことができれば、それこそ驚くべき奇跡だと私は思います。

砂の袋

 パブロ青年は、自転車でメキシコとアメリカの国境に辿り着きました。彼は大きな袋を肩に背負っていました。アメリカの税関の職員は、パブロに尋ねました。「この袋の中には何が入っているのですか」。「砂です」とパブロは答えました。「それでは、自転車から降りて袋を開けてください。調べますから」と税関の職員は言いました。税関の職員は、砂を土の上に開けて袋の奥底まで調べました。しかし、何も違法な物は見つけませんでした。「はい。もういいです、行きなさい」と言われたで、パブロは袋の中に検査のために出された砂を戻して、袋を肩にかけ自転車に乗って国境を超えました。

 一週間後、パブロは前回と同じように砂の袋を肩に背負って、メキシコからアメリカへ行くために自転車に乗っていました。税関の職員は、前と同じようにパブロに尋ねました。しかし、疑う気持ちで袋の中を探しても違法な物は全く見つけられませんでした。そこで、税関の職員は尋ねました。「この砂で何をするのですか」。「親戚の子どもの小さな遊び場を作るために運んでいます。この砂はアメリカの砂よりもずっと細かいので子どもの遊び場にとてもいいのです」とパブロは答えました。しかし税関の職員はこの砂は何かおかしいと疑問をもっていました。そこで、この砂の見本を調べようと決め、パブロを一日税関で引き留めることにしました。分析の結果、袋の中の砂は普通の砂だと判明したので、パブロは無事にアメリカに入国することができました。

 パブロは3か月間、毎週自転車に乗って親戚の家に砂を運びました。彼は国境に着くと税関の職員はいつもの通り袋の中身を詳しく調べました。しかし一度も違法な物を見つけませんでした。数年後この税関の職員は引退しました。その年の夏、彼はメキシコ旅行中海の近くの小さな村のホテルで休むことに決めました。ある日、海辺を歩いていると、小さな酒屋の入り口で偶然パブロに出会いました。「あの、ちょっと。覚えていますか。あなたは何年か前、自転車で砂を入れた袋を何度も運んでいた方ですよね」と税関の以前の職員は言いました。「はい。そうです。確かに私です。よく覚えていて下さいましたね。私はここでこの小さな酒屋の持ち主になりました。今は、海の直ぐ傍で楽しい生活を送っていますよ。」そう答えました。

「そうだったのですか。実は私は数ヶ月前に税関職員の仕事を辞め、今は、引退しています。私はどうしても知りたいことがあります。あなたと出会った日から私はずっと一つのことを考えていました。私とあなたとの秘密にしますので、あなたがアメリカに密輸していた物は何だったのか教えていただけますか」と尋ねました。「はい、解りました。私がある物を密輸していたことは確かです。しかし、あなたは何も見つけられませんでしたよね。私が密輸していたのは、自転車です。あの密輸で儲けたお金でこの酒屋を買いました。」とニコニコしながらパブロは答えました。

 律法学者たちとファリサイ派の人々にイエスは次のように言いました。「ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえもこして除くが、らくだは飲み込んでいる」(参照:マタイ23,24)。私たちはとても簡単に騙される人です。つまらない値打ちのない物ごと、あるいは魅力的な物ごとに捕らわれて大切な物を見分けることが出来ません。中国の諺が教えている通り、「知恵のない人はお月様を見るよりも、お月様を指さす人の指を見る」。「星の王子さま」でサン=テグジュペリが書いたように「人は心でしかよく見えません。本質的なのは目に見えないのです」。疑問や疑いや偏見は人の眼差しに曇りをもたらします。イエスはこれについて私たちに忠告しました。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(参:マタイ6, 22-24)と。ですから、この税関の職員のように騙されないように、神が私の目をよく開くように切に願いましょう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

愛の絆

 チノとオリビアは幼い時からお互いに大好きでいつも一緒に行動していました。二人が育んできた友情はいつの間にか強い愛に変わってきていました。二人は結婚のことを少しずつ考えました。しかし、ほんの少し結婚生活に不安を抱いていました。二人の住んでいる村にベネディクト会の修道院がありました。幸いなことに、その修道院の院長は結婚について良いアドバイスを与える人としてとても有名でした。二人は相談してアドバイスをもらうために彼を尋ねることに決めました。

幼い時から二人はその修道院のそばで遊んでいたので、院長は二人をよく知っていました。二人の結婚の望みと不安についの話をよく聞いてから、院長は次のような提案を出しました。「チノ、あなたは三日後に私の所に一羽の大きな鳩を持って来てください。そして、オリビア、あなたは三日後に一羽の小さいニワトリを持って来てください。じゃ、三日後に…。」そう言われて二人は院長の意味の分からない要求に驚きましたが、何一つ質問せずに彼の言うとおりにしようと決めて家に帰りました。

三日後、二人は院長に言われたとおり一羽の大きなハトと一羽の小さなニワトリを持ってきました。院長は二人を修道院の庭に連れて行き、自分のポケットから一本の細いロープを出しました。「あなたたちのハトとニワトリをしっかり掴んで、二匹を近寄せてください」と願い、院長は細いロープを使って、ハトの一本の足をニワトリの一本の足に結びました。「今からこのハトとニワトリを離して自由に歩かせてください」と院長はチノとオリビアに願いました。もちろん二羽のとりは上手に歩くことが出来ません。鳩は飛ぼうとし、ニワトリは足で歩いて逃げようとするので、二匹は互いに離れるために口ばで突っつき合いお互い傷つました。

そこで、院長は次の様な説明をしました。「今見た通り、互いに愛の絆で結べば結ぶほど、互いを傷つけ離れようとして喧嘩になり、結局不幸になってしまいます。ですから君たちが育てた愛が結婚しても長く続くように望むなら、一緒に同じ道、同じ方向に向かって歩き、同じ目的を求めてください。しかしお互いを縛りつけることは決してしないでください。お互いの愛はあなたたちの結婚生活をボクシングの綱で囲まれた四角いリングのようにしてはいけません。なぜかというと、本当の愛は人を自由に一致させますが、決して縛らないからです。さて、これが私からのアドバイスです。」と院長は言いました。「はい、院長様よく分かりました」と声を合わせてチノとオリビアは答えました。数日後二人は自分たちの両親の赦しを得て、結婚することに決めました。勿論、院長は修道院で彼らの結婚を祝福しました。

「神は愛であり」(1ヨハネ4,8)「光です」(1ヨハネ1,5)ので神の愛と光は人々を一致へと導き、決して縛りつけたりはしません。神の愛と同様に人間の愛の絆も破れることも砕かれることもない、断ち切れない鎖に決してなってはいけません。むしろ愛は愛する人に自由の翼と互いの信頼と自立を与えます。残念ですが、大勢の人はそのことを忘れて自分の愛する者を操り人形自分の所有物のように扱って、奴隷に変化させてしまいます。結局、最初に光り輝いていた愛は、縛りつけられた暗闇の支配下におちいってしまいます。やはり「愛に生きること」は難しいですねえ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

三体の人形


 ある大学の先生は今年新しく入学してきたばかりの学生たちの注目を引くために何かいい方法は無いものかと色々と考えました。しかし、中々良い方法は思いつきませんでした。そんなある日、仕事から家に帰り娘の(かおり)ちゃんの部屋に入るなり先生の目は彼女のセルロイド製の人形に釘付けになりました。すぐ先生の頭によいひらめきが浮かんだので彼はとても嬉しくなりました。そして次の日、先生は教室の教壇の上にセルロイド製の三体の人形を並べました。

 何が始まるのかと驚いている学生たちに「今日の勉強はこの人形から学ぼうと思います。皆さん一人ひとりこの机の上に並んでいる三体の人形をよく見て調べてください。このセルロイドで作られた三体の人形は同じ形、同じ高さです。しかし、まったく違います。さあ、どこが違うか分かりますか」そう先生は言いました。学生たちは三体の人形を一生懸命に見比べましたが、誰も違いを見つけることが出来ませんでした。そこで先生は「この虫メガネを使ってもう一度よく調べてください。きっと見つけことが出来るでしょう」とヒントを与えました。

 暫くして、ある学生が叫びました。「先生、分かりました。人形の耳に小さな穴があります。最初の人形は両耳に、二番目の人形は片方の耳と口に穴があります。そして三番目の人形は片方の耳にしか穴がありません」。「そう、そうだよ!よく分かったね」と先生は拍手をしながら言いました。「じゃあ、説明しよう。よく見ていてくださいね」そう言うと先生は長い針を取って最初の人形の右の耳に突き刺しました。するとこの針は左の耳から出てきました。次に先生は二番目の人形を取って、右の耳の穴に針を突き刺すとその針は人形の口から出てきました。最後に三番目の人形の耳の穴に針を突き刺しました。しかし、この針は不思議なことにどこからも出てきませんでした。

 学生たちに先生は最初の人形を見せながら説明しました。「この大学に通っている大勢の学生たちはこの大学で何を学ぶのかという学の動議付けや自分の人生に対して目的を持っていません。一部の学生たちは先生である私たちの教えを真面目に聞き、よく理解し、教えられることをとても好みます。しかし、彼らは自分が一生懸命に取ったノートを見ようとしません。ですから当然耳に入った教えをすぐに忘れてしまいます。このような学生は「馬の耳に念仏」という諺がぴったりです。彼らの耳に入った教えは、すぐもう一方の耳から出ていくので、結局この学生たちは数年の間に大学を辞めてしまいます。最初の人形はその学生たちをよく示しています。二番目の人形は次のような学生を指しています。この人たちの特徴は「カササギのようにぺちゃくちゃよく喋る」ことです。このような学生たちは不思議ですが、先生である私たちの教えを喜んで聞いています。そして聞いた教えをよく覚えて暗記しています。ところが、他の人と話す時にどうしてかは全く分からないのですが、私たちが教えた教えを歪曲して伝え、同時に先生方に対しての批判も伝えます。その結果、この学生たちは大学に対して反発を持つようになり、すべてのことを悪意で見るようになり卒業まで大学に残らないことが多いです。三番目の人形は正しい勉強の仕方をしている模範的な学生たちを示しています。この学生たちは学の動議付けを持っているので、教えられたことを大切にし、よく覚え、探求心から自分でそれを深め、役に立つものとします。さあ、それでは一年生になったばかりの君たちに尋ねよう。君はどの人形になりたいですか。よく考えてください。大学の卒業を目指しているなら、この大学で得できる勉学と、ここにいる間の貴重な時間を無駄にしないように、必ず三番目の人形になってください。また時々、今日の私の教えを思い出してください。必要なら私はいつでも助けになりますので、よろしくお願いします」と先生は言いました。

 「耳ある者は聞きなさい」(参照:マタイ13,9)とイエスは宣言しました。難しい時代に生きている私たちは絶えず自分の耳に入る情報や知らせや教えについて慎重に対応する者になることが大事です。また聞いたことをよく理解しても、それを不注意のせいで歪曲して伝えたり、わざと誰かのことを悪く言ったりする危険がないように用心深く口を閉ざしていた方がいいと思います。賢い者は、学んだことや体験したことが役に立つように聖母マリアを真似て自分の心に静かに納め(参照:ルカ2,19)それを思い巡らす人です。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

人生の不思議な繰り返し

 保険会社の森田社長は急いで自分の事務所に向かっていました。今日の責任者会議の議案として良いアイデアが頭に浮かんでいたからです。嬉しさのあまり急いでいたので、回りが見えなくなっていた森田社長は道の端で休んでいた犬のしっぽをうっかり踏んでしまいました。犬はびっくりして自分を守るために森田社長の足に噛みつき、彼のズボンを破って逃げました。この出来事のせいで、森田社長は浮かんでいた良いアイデアを忘れてしまいました。思いついたアイデアを思い出せない苛立ちから、自分の不満を会議のために集まっていた責任者たちに浴びせ始めました。

 社長の厳しい(とが)めを受けた責任者たちは、その理由を理解できないまま、今度は自分たちの下で働く事務員たちに自分の不平不満を言って当たり散らしました。その結果、事務所に勤めている人たちは、上司の理不尽な愚痴を黙って我慢して、その日一日上司に反論できない不満で苛立った気持ちを抑えなければいけませんでした。一人の事務員の男性が自分の家に帰った時、妻が「今日は遅かったのねぇ…、早く帰ってきてくれるようにと、言ってたのに・・・!」と文句を言いだした。男性はそれを聞くなり、今まで押さえていた不満が爆発して自分の妻にどなり散らしました。急に怒りだした夫の行動を理解できない妻は、洗っていたお皿を夫に投げました。しかし、手が滑ってお皿は壁に当たって壊れました。「おい、俺を殺すつもりか!」と言って、夫は自分の部屋に入り鍵をかけました。

 その時、息子の太郎はテレビゲームで遊んでいました。「太郎!ゲームばかりして遊んでいないで、早く勉強しなさい!」と母親は叫んで自分の不満を子供にぶちまけました。「もう、宿題は終わったんだから、遊んでもいいでしょ」と太郎は答えました。しかし、お母さんは増々声を大きくして彼をきつい言葉で咎めながら、テレビを消しました。太郎は自分が理解されていないので怒って、ブツブツ文句を言いながら開けた戸をバタンと閉め、暗い夜の外へ出て行きました。太郎がイライラしながら道を歩いていると、道の端で休んでいる犬を見ました。犬のそばに来て、太郎は足で犬にキックを入れました。急にキックされた犬はびっくりして、自分を守るために太郎の足に噛みつき、彼のズボンを破って逃げました。何と、この犬は今朝、森田社長がしっぽを踏んだ犬でした。

 コロナウイルスが日常生活を奪っているので、私たちは不平不満を抱いて中々落ち着かなく、我慢できない状況に閉じ込められています。残念ですが、最近はこのような毎日の繰り返しです。自分が苛立って、声を荒げることで、他の人々も同じ状態に引き寄せられています。不満は伝染病と同じように、人から人へと感染するものです。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(参照:ローマ12,21)と聖書は教えています。怒り、不満、不平に打ち勝つために、自分を押さえること、よく笑うこと、諦めずに希望することがとても大切です。また、お互いの支えと慰め、理解と親切さも必要です。このようなコロナ禍の中だからこそ、次の聖書の言葉を時々思い巡らせてはどうでしょうか。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(参照:エフェソ426)。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

3つの石で作られたスープ

 中世のある時代にひどい飢饉が起こりました。国中のあらゆる村が非常に困っていました。村人たちは皆、残っている食べ物が盗まれないように厳重に隠していました。ある日、大きな馬車を引いた旅人が小さな村に現れました。するとすぐに村人たちは彼を追い出そうとして、「ここには食べ物なんてない。ここからすぐに出て行け!」と厳しく言いました。「いえ、いえ、違います。私は食べ物が欲しいのではありません。村の皆さんに良い石で作ったスープをただで食べてもらいたいのです」。そう言って、旅人は大きな薪を運び、それを斧で割って、火を付けました上に黒い鉄の大鍋を置きました。好奇心から段々と村人たちが旅人の周りに集まり始めました。村人たちが大勢集まってきたのを見て、旅人は村人たちに向かって「おいしいスープを作るために綺麗な水が必要です。どなたか持って来てくれないでしょうか」と尋ねました。「僕がすぐ持って来るよ」とある青年が言いました


 
綺麗な水が注がれる直前に、旅人は持って来た3つの石を黒い鉄の大鍋の中に入れました。「美味しいスープを作るために塩とコショウが必要ですが、私は残念なことにそれを持っていません」と旅人は寂しそうに言いました。これを聞いていた年寄の女の人が「私の家にあるから帰ってすぐ持って来ますよ」と言いました。女の人が持って来た塩とコショウを入れて、水に味付けをしました。「そうだ!少しの野菜があればもっと美味しくなるに違いない。ニンジン、トマト、キャベツ、あるいはキノコなどがあるといいのだが…」。それを聞いた何人かの村人は「じゃあ、まだ少し家に野菜があるのですぐ持ってくるよ」と言いて、急いで家に帰り、それぞれに家に残っていた野菜を持って来ました。黒い鉄の大鍋からだんだんと良い香りがのぼってきました。

 再び旅人はスープの味見をしてから「この村の人々に相応しい、最高級のスープを作るために、ベーコンやソーセージ、あるいは牛肉、鶏の肉、豚肉などがあればいいのだが…」と言うと、村の肉屋さんたちは声をそろえて「私たちは、まだ売り物の肉を少し持っているので、すぐに持って来てあげるよ」と言って急いで店に帰りました。村人たちの協力のお陰で、ビタミンやミネラルが豊富で栄養価の高い美味しいスープが出来上がりました。そして旅人が約束した通り、皆がただでこのスープをおなかいっぱい食べました。そこで旅人は次のことを教えました。「今は大飢饉の時ですが、皆の協力のお陰でこんなに美味しいスープを皆が食べることが出来ました。このような飢饉の時、人が自分のためだけに食べ物を取っておこうとすれば、ケチになって誰も十分に食べることができません。しかし、今のように自分のために取っておいた物を少しずつ皆と分かち合えば、皆が満腹するほど十分に食べることが出来ます。ですから、これからは今日の体験を思い出して、皆が協力し合えば、無事にこの飢饉を乗り越えることができると信じてください。私は、これから丘の上の村へ行って同じ事を教えるつもりです。今日は本当に皆のおもてなしに心から感謝します。あっ、忘れていました。大鍋に入れた3つの石は、あなたたちの固い心・偏見・恐れのあらわれだったのです。しかし、皆の好奇心と分かち合いのお陰で、皆さんの心は段々と変えられて、今では寛大な心になりました。皆がこの寛大さを失わないようにこの3つの石を残しておきます。ケチの誘惑を感じる時には必ずこの石を見に来てください」。旅人はそう言い終わると、村人の拍手の雨を浴びながら村を去りました。そして、彼の教えを大切にした村人は、翌日から自分のものを分かち合ったので、この飢饉を無事に乗り超えることができたそうです。

「飢えた人にあなたのパンを裂き与えなさい」(参照:イザヤ58,7)という聖書の言葉が私たちの心を動かすなら幸いです。神は石をパンに変えることはしません(参照:マタイ4,3)が人間の石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36,26)ことは出来ます。石は決して食べ物にはなりません。しかしそんな石でもこの物語が教えたように人々に信頼を示して、上手に使えば大きなことが出来るのです。信頼は人の心を変えるからです。自分が困っている時に孤独と利己主義に落ち込むよりも、誰かと出会って素朴に信頼して、色々と分かち合うことが望ましいのです。どんな酷い状況の中にいても、利己心を捨てて他の人々と共に解放の道を探す事が最も良い解決策です。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

求婚者の100日間

 ある国にたいへん美しいお姫様がいました。お姫様は結婚相手を探していました。あらゆる国々から次々と求婚者が来て、高価なプレゼントを贈り、プロポーズをしました。求婚者には貴族・お金持ち・庶民とあらゆる身分の人がいましたが、お姫様の目には誰一人として好意を持てる人がいませんでした。しかし、求婚者の中に田舎出身の若い青年がいました。青年は純朴で質素でしたが、忍耐力と強い愛を持っていました。

ついにお姫様と出会う日が来た時、青年は次のように告白しました。「お姫様。私は誰にも負けない強い愛以外、あなたに捧げるものがありません。ですから、愛の証拠として私の忍耐力を捧げます。私は今から100日間の間、あなたの部屋の窓の下に留まるつもりです。水を飲む以外には何も食べずに、どんな天気であってもこの服を着て、あなたをお待ちします」と宣言しました。お姫様はこれを聞いて、若い青年の要求を承諾しました。「それでは、あなたにチャンスを与えます」。そう言って、自分の部屋に戻りました。

 それから自分が宣言した通り、青年は水を飲む以外は何も食べずに、雨の日も太陽が照りつける日も、風や寒さも耐え忍びながら、忍耐強く諦めずにずっとお姫様の部屋の窓の下で留まっていました。そしてお姫様に対する強い愛の心を示そうとしました。時々、お姫様は窓のカーテンを引いて彼を見ましたが、何の感情表しませんでした。青年の苦しみを悟った町の人たちは彼を励まし、こんな馬鹿らしい賭けを辞めるように助言しました。お姫様はそのことを知っても、何の感情反応も示しませんでした。しかし、お姫様はこの100日間は他の求婚者と出会うことを断りました。ですから、町の人たちはようやくお姫様がこの青年と結婚する決心したのだと思い込みました。さっそく人々は、喜び勇んで町の道を飾り、音楽家を招き盛大な準備を始めました。

そんな時、ついに試練の100日目がやって来ました。約束の100日間があと一時間しか残っていないというその時に、若い青年は何も言わずに自分の村へと帰っていったのです。お姫様をはじめ、町の人々も何が起こったのか分らずに呆然として言葉を無くし、何をしたらよいか分からなくなりました。数日が経ったある日、一人の羊飼いが羊を売るために青年の村に立ち寄ったところ、偶然に青年と出会いました。思わず青年に向かって「いったいどうしたのですか?あなたは自分の賭けに勝つことが出来たのに、どうしてお姫様との結婚を諦めたのですか?」と尋ねました。青年は苦しみのため息をつきながら重い口を開いて説明しました。「私は自分よりもお姫様を強く愛していました。愛の証拠として、悪い天候やどんな苦しみや思いがけないことにも耐え忍びましたが、お姫様は一度も私を励まされることなく、憐れみもかけず、ご自分の感情もお見せになず、私の苦しみを和らげることなく、ずっと私に対して無関心でした。たとえ私を愛してもなくても、町の人の憐れみの反応を見て、あのお姫様は私の苦しい試練を辞めさせることさえなさいませんでした。結局、お姫様は私の強い愛に相応しくない人だったのです。」そう青年はすすり泣きながら答えました。

 この話は人々に無視されている神の愛と助けについて述べています。また、神の心の苦しみも教え、それを知らせています。「わたしは、とこしえの愛をもってお前たちを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」(参照:エレミヤ31,3)。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(参照マタイ23,37)。神は心痛を訴えます。ある人の幸せのために、すべてを尽して愛情と信頼の証拠をしたとしても、もしその人が無関心を示すなら大きなショックを受けることでしょう。自分が示した努力に対して、人の励まし、慰め、理解がなければ絶望の底に陥るに違いありません。捧げる愛と友情に対して相手が相応しく接しないなら、私たちはひどく途方にくれ、ある意味で失恋の苦しみを感じるのです。

***************************************************************************************


秘密の部屋

 ラファエルは王様の世話をする召使でした。彼は若くて美しく、そのうえ賢くて心の優しい青年でした。彼は他の召使よりも真面目であり、頼まれた仕事をひたむきに取り組んでいました。ヘンリ王はそれを知り、ラファエルを自分のそばに来させることを望みました。時の流れと共に二人の間には信頼関係が生まれ、ヘンリ王はラファエルに絶対の信頼を持つようになりました。ヘンリ王はラファエルと一緒に仕事や憩いの時間を過ごすことが大好きでした。ラファエルとの友情を深めるために、ヘンリ王はラファエルに度々貴重なプレゼントを与え、お気に入りの召使にしていきました。その結果、ラファエルは大きな財産を持つようになりました。この様子を見ていた宮廷に仕える貴族たちは、ラファエルに対して嫉妬と憎しみを抱いていました。と言うのも、王様が自分たちよりもこの階級のない召使を大切にすることを彼らは許せなかったからです。そうう訳で、ヘンリ王がラファエルに対する信頼を失うように、貴族たちはあらゆる手段を使い始めました。

 ラファエルは毎日、宮廷にある小さな部屋で鍵をかけ30分くらい留まる習慣がありました。ラファエルだけがこの部屋の鍵を持っていました。ラファエルを妬んでいた貴族たちは「きっとラファエルはこの部屋で何か企んでいて、王様からもらった貴重な宝物を隠しているに違いない」と想像しました。そして、ラファエルに対する疑惑やありとあらゆる悪口をヘンリ王の耳に入れました。「王様、ラファエルはあなたを騙しています。王様がお与えになったプレゼントを金にして、クーデタを起こす準備しているに違いありません」、「王様、お願いですから、ラファエルの秘密の部屋を無理にでも開けてください」そう貴族たちは要求しました。ラファエルの忠実さを信じていたヘンリ王ははじめこの訴えを無視していましたが、だんだんとラファエルを疑い始め、とうとう秘密の部屋を開けるように命令しました。

 時間をかけて、ようやく二人の貴族が秘密の部屋のドアを壊しました。やっと開いた部屋の中を見て、皆驚いて唖然としてしました。部屋は空っぽで、ただ小さな椅子の上にボロボロの服、そして椅子の下に汚いサンダルが一足置いてあっただけでした。貴族たちは、自分たちの間違いを知り、とても恥ずかしくなりました。王様はラファエルにすぐ来るように命令しました。
ラファエルは大慌てで小走りにヘンリ王のそばに来ました。王様はラファエルに尋ねました。「友よ、聞きたいことがある。お前はなぜこの部屋に閉じ籠りこの古臭い物を大切にするのか」。ラファエルは答えました。「王様、私がこの宮殿で働き始めた時、ボロボロの服と汚いサンダルしか持っていませんでした。しかし、王様は私をとても大切にして下さり、たくさんのプレゼントを下さいました。でも、私はいつも自分がどこから来たか、そしてこんなに私を大切にして下さる王様の寛大さを忘れないように、毎日30分くらいボロボロの服とサンダルを見て、ゆっくり深く黙想します。そしてこの部屋で王様の健康と国の統治の成功のために静かに神に祈っているのです」そうラファエルは答えました。

 貴族たちは口々に叫びながらラファエルに尋ねました。「君は王様からいただいた貴重なプレゼントをいったいどこに隠したのだ」。ラファエルは答えました。「王様からのプレゼントは売ってお金に換え、町の貧しい人々や困っている人々に施しました。私は自分だけが幸せになりたくはなかったからです。王様から憐れみを受けた私は、不幸な人々を憐れむのは当然ですから」。それを聞いてヘンリ王は大いに喜んで、ラファエルを褒め抱きしめました。ラファエルを訴えて、彼の評判を汚した貴族たちを厳しく咎め宮殿から追い出しました。

 「自分の施しを人に見せないことや奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところの神に祈る」こと(参照:マタイ6,4-6)をイエスは勧めました。私たちもこの召使いのラファエルと同じように、受けた恵みと幸せを神に感謝すること、自分たちの恩人のために祈ること、そして自分の過去を振り向いてどこから来たのかを考えることが、とても大切です。人はただ一人では幸せになりません。自分の心の豊かさと持っている物を困っている人に分かち合うことによって人は本当に幸せになれるのです。それは大勢の人の信頼を引き寄せるからです。このような精神をもってクリスマスの雰囲気に入りたいものです。

 

王様の宝石

 
昔、ある遠い国に貴重な宝石を持っている王様が住んでいました。王様は密かに次々と人を誘い自分の持っている貴重な宝石を見せていました。まず宮殿の侍従(じじゅう)(ちょう)に見せて「この宝石は幾らくらいだと思うか」と聞きました。「はい、王様。6頭のロバで運べる金の重さに等しいと思います」と侍従長は答えました。「よし、そうだ、その通りだ。では、このハンマーでこの宝石を叩き壊しなさい」と王様は命令しました。「王様、とんでもないことです。無理です。この宝石は評価できないほど高価なものです。女王様に差し上げたら如何でしょうか?お喜びになられるのではないでしょうか?」「いやいや、この宝石は女性には合わないものだ。女性たちは鏡の前で何時間もかけて化粧をし、男たちの気を引こうとたくさんのアクセサリーを身に着ける。だが、結局男たちは女性の顔や身を飾っている飾りよりも、彼女たちの胸と足とお尻にしか興味がないのだ」と王様は言いました。

 次に呼ばれたのは町に住む大金持ちの銀行家でした。彼も王様からその宝石を叩き壊すように命令を受けます。その途端、大声で叫びました。「まさか、そんなことをしてはいけません! 叩き壊すならそれを私に与えてください。私はこれで株を買って、王様のために高い利息を集めましょう」。そう銀行家は勧めました。しかし、王様は彼の意見には耳を貸すことはしませんでした。

 3番目に呼ばれたのは、欲張りでけちな人でした。王様の貴重な宝石を見ると、破壊する命令を待たずに叫びました。「王様、この宝石をすぐ隠してください。泥棒が見つけないためです。王様がよろしければ、私は破壊できない大きな金庫を持っているので、遠慮なく私に預けてください。命がけで必ずこの宝石を守ります」ケチな人はそう言いました。しかし、王様はきっぱりと断りました。

 4番目に呼ばれて来たのは貧しいお坊さんでした。宝石を見ると、それを貰えると思ったので、彼は目を輝かせました。しかし、宝石をハンマーで叩き壊す命令を聞いて、お坊さんは涙を流しました。「王様、お願いします。私にこの宝石を与えてください。それをお金に換えて、とても古くボロボロになった私の寺院を建て直したいと思います」。そう願いましたが、王様はお坊さんの願いを退けました。

 続いてこの町で有名な司教が呼ばれました。彼も、宝石を叩き壊すことを強く拒みました。「王様、それをせずにこの宝石を私に与えてください。それを高く売ればそのお金で町の貧しい人に必要な助けを与えることが出来ます」。そう懇願しましたが、王様はいつものようにこの願いを無視しました。

 最後に、王様のもとにいる若い青年奴隷が来ました。宝石を見ると奴隷は言いました。「王様、私は物の値打ちを知りません。この宝石はとても高く値打ちのあるものかも知れませんが、私は何も分かりません。身分のある方々が私の代わりに考え、すべてをされますから。ただ、私は王様から頼まれることだけを行います。いつも忠実に素直に言われた通りにします。それが私の務めですから」と青年奴隷は王様に答えました。「よし、それなら、このハンマーでこの宝石を叩き壊せるか?」と言うと、「王様のお望みなら、勿論、叩き壊します。私がこの宮殿にいるのは目上の方々のお世話をするためです。ですから、受けたご命令に従うのは、この宝石よりも、また他のどんなものよりも私にとって大事なことです。私は従順に王様のご命令に従うためにこの宮殿で働いています」ときっぱりと答えました。これを聞いた王様はこの青年に宝石を与えました。そして彼に言いました。「今日からお前は自由の身だ。私のすぐそばに座りなさい。私はお前を唯一無二の友とするだろう。今までと同じように、ずっと・自由に・素直に・忠実に私に伴って欲しい。お前に与えたこの宝石は、私たちの友情の(しるし)だと思いなさい」。王様は喜びをもって語りかけました。

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(ルカ122, 35-37)と、イエスは言いました。普通、人々は自分の思うように自由に動くので、命令に従うことが好きではありません。

 この話に出てきた人たちのように、自分にとってメリットのあるものを探し求めることは当然の生き方です。また“報い”という条件が付いた願いであれば、人はそれに容易に従う可能性があります。しかし、実際には物事に対して従順であることは私たちの特徴ではありません。王様もとにいた青年奴隷のように考えるなら、きっと様々な困難を乗り越えることができるに違いありません。自由に・素直に・忠実に・従順な心を自分の内に作ることが最も必要ではないでしょうか。そうすれば、私たちは「神のみ旨を行うことは私たちの心の喜び」(詩編119,112)と歌えるでしょう。


真珠の首飾り

 5歳になった可愛い文子ちゃんは、お誕生日のプレセントにピンクの綺麗な箱に入ったイミテーションの首飾りをもらいました。以前におもちゃ屋さんの前を通った時に、文子ちゃんがこのイミテーションの首飾りを、目を輝かせてじっと見ていたことにお母さんは気づいていたからです。お誕生日プレゼントの真珠の首飾りを見た途端、文子ちゃんは喜びに溢れ小躍りしました。そしてすぐに自分の首に掛けました。その日から文子ちゃんはベッドで寝る時とお風呂に入る時以外は、朝から夜寝る時まで自分の首に真珠の首飾りを掛けていました。いつも、寝る時間になると文子ちゃんはこの首飾りを綺麗なピンクの箱の中に入れて、ベッドの枕の下に大切に置いていました。文子ちゃんはどうしても首飾りと一緒に寝たかったからです。父は娘の文子ちゃんがとても大好きで、彼女を寝かせるために毎晩お話を読む習慣がありました。

 文子ちゃんの誕生日の数週間後のある夜のことです。父はお話を読み終えると次のよう娘に聞きました。「フミちゃん、私を好きですか」と。「もちろんだよ、パパ。フミはパパが大好き!」と答えました。「そう、じゃ、パパにこの真珠首飾りをくれる?」と父は願いました。「ダメ!これは絶対にダメ。この人形ならあげてもいいけど、この首飾り絶対にあげない。」と文子ちゃんは怒りました。「そっか、それは残念だなぁ。じゃ、お休みなさい。我が愛する娘よ」と言って、娘の部屋を出ました。

 この日から、父は寝る前にお話を読んだ後で、娘の文子ちゃんに同じ質問をして首飾りをくれるようにと願いました。毎晩、毎晩、父は文子ちゃんに同じことを願いましたが、文子ちゃんは自分の大好きな首飾りは誰が頼んでも決して誰にもあげないとお父さんに告げました。娘が否定する答えを聞いてから、父は「お休みなさい、我が愛する娘よ」と言い文子ちゃんを寝かせました。1ヶ月が経ったある夜、父がいつもの様にお話を読むために文子ちゃんの部屋に入った時、今までと違って娘はベッドの中ではなく、ベッドの上に座ったまま父を待っていました。娘の傍に座った父は、娘の目から大粒の涙が出ていることに気がつきました。「フミちゃん、どうしたの。なぜ泣いているの」と父は娘に優しく尋ねました。すると文子ちゃんはすすり泣きながら、真珠の首飾りを収めた綺麗なピンクの箱を父に渡し「お父さんが大好きだから…」と言いました。

  父がピンクの箱を開けるとフミちゃんが大切にしている真珠の首飾りが入っていました。父はそれを取り出して、何も言わずに首飾りとピンクの箱を自分の上着の右のポケットに入れました。そして上着の左のポケットから本物のとても美しい真珠を収めている貴重な青い箱を娘に渡しました。父はずっと前からその瞬間を待っていました。箱を開けると、文子ちゃんはびっくりして、大きく目を見開いて、今泣いていたことを忘れて父の首に両手をかけ、何回も何回もキスをしました。

  私たちは、このお話の文子ちゃんに似ています。偽りのもの、役に立たないもの、値打ちのないものを異常に大切する傾きをもっています。神はそれらの代わりに、私たちに値打ちのある、貴重な他のものを与えたいにもかかわらず、私たちはこのことを理解せずに、偽物に強くしがみついて離れません。物語の父がしたように、神も強制的には私たちから何も取りません。私たちが自由に、また自発的にそれを差し出すのを神は待ち望んでいます。「あなたの持ち物を与え…天に宝を蓄えることになる」(参照:マタイ6,21)とイエスは勧めています。聖パウロも同じ忠告をします。「上にあるものを求めなさい…地上のものに心を引かれないように」(参照:コロサイ3,1-2)と。もし私たちが神を愛するなら、文子ちゃんのように、泣きながら神に大好きなものを引き渡すかも知れませんが、その代わりにきっともっと値打ちのあるもの神からいただけるでしょう。


哲学の課題

  
ある学校の哲学の先生は、ある日のこと、授業の中で生徒たちに抜き打ちの課題を与えました。生徒たちはもちろんとてもびっくりし、教室中に大ブーイングが広まりました。そこで先生は、生徒一人ひとりに一枚ずつ裏向けの課題の書かれたペーパーを渡し始めました。すべての生徒にペーパーを配り終えた時、先生は今配ったペーパーをひっくり返し、表を向けるように言いました。先生の言うとおりペーパーをひっくり返した生徒たちはとても驚きました。ペーパーの表には、中央にとても小さな黒い点が1個書いてあるだけだったのです。生徒たちの様子を見て先生は「では、今から30、このペーパーで見ているものについてよく考えて書いてください」と言いました。

  30分経ったので先生は生徒たちの答案を集めました。そして生徒たちの書いた答案を大きな声で読み始めました。すべての生徒はペーパーに書かれたこの小さな黒い点について、またこの点が中央に置かれている理由について詳しく考察して書いていたのでした。一通り読み終えた後、先生は大切なことを語り始めました。「私はこの課題に採点はしません。なぜなら、皆はこの小さな黒い点に集中したからです。誰もペーパーの大部分を占める白色について、あるいはペーパーの幅や重さ、形や材料について考えませんでした。なぜでしょう、不思議ですね。このことについて、今ここで一緒に考えたいと思います。私たち人間は、人生にある黒い点、すなわち悪い出来事に集中しがちです。病気、足りないお金、失われた物、難しくなった人間関係、友だちの死、災いなど。人生にある最も大切な出来事と比べて、これらの黒い点はとても小さいにもかかわらず、大きく考えてしまいがちです。その結果、生きる喜びが奪われることになるのです。幸せに生きるためには、人生の黒い点を気にせず、大事にしない方がいいです。

むしろ人生の良い点、楽しい点、値打ちのある点をしばしば思い巡らし、新しい出発の飛躍として使ったらどうでしょう。あなたたちは今、青春の真っただ中にいて、新しい発見をする時です。人生はあなたたちにたくさんの豊かな幸せの時を与えてくれます。ですから、人生があなたたちに与える確実な瞬間、幸福の時や出来事を大切に味わってください。人生の歴史の中で悪い時があったとしても、今私たちは過去の人々よりも安全に、豊かに暮らしています。確かに人生の小さな黒い点に似ている悪い過去のせいで、人生という大きくて白いペーパーを正しく見られなくなってしまうこともあるでしょう。ですが、明るく生きるためには不幸や悲しい思い出を拡大するのではなく、小さな幸せや忘れられない大切な出来事の重さ・幅・理由について思い巡らすことがとても必要で大切なのです。そうでなければ、知らずしらずの内に、あなたたちは不満ばかりの人、気持ちの荒んだ人となってしまうでしょう」。

  先生の話を聞いた生徒たちは感動して立ち上がり、割れるような拍手を送りました。

  イエスがからし種のたとえ話を語った時、目に見えないからし種がやがて大きな木になることについて教えました(参照:マタイ13, 31-32)。同じように人生の小さな黒い点である悪いものをじっと見つめるなら、それが段々大きくなって他の大切なことを隠すようになります。先生の説明はこの例えとぴったり合うと思います。数か月前からコロナウイルス感染症の悪い影響を受けている私たちは、喜びに生きることを忘れています。普段の生活が驚くほど変わったので、私たちは不安と恐れをますます感じています。このコロナウイルスが蔓延する限り、私たちは生きる楽しさを失い続けるでしょう。この状態こそ、良い麦に混ぜている毒麦のたとえ話にそっくりです(参照:マタイ13,24-30)。私たちは人生の良い出来事の時をしっかり心に思い巡らせて、今の悪い状態の時を耐え忍ぶための武器にしましょう。
退職した先生の教え


 ある町に退職をした学校の先生がいました。この先生は、毎週日曜日の夕方5時ぐらいになると自分の家に数人の生徒たちを集める習慣がありました。思いがけない出来事に直面しても先生は落ち着いた態度を示していました。このことはいつも生徒たちを驚かせていました。なぜいつも落ち着いた態度を示せるのかについて先生は次のように教えました。「人々はその日の天気予報について、あまりにも心配しすぎると思います。良い天気を望んだのに雨が降ると人はブツブツと文句を言いますね。あなたたちもきっとそうでしょう。私は天気を支配できないと分かったので、その日その日の天気が私にとって一番良い天気だと思うことに決めました。雨の日にも、晴れの日にも、夏の暑さも、冬の寒さもすべては神が下さる恵みなので、私はそのことに満足して、どんな天気であっても皆大好きです」と。

 生徒たちは先生の説明がとてもユニークだと思い、下を向いて密かに笑いました。そのことに気づいた先生は一人の生徒に尋ねました。「先生は見ましたよ。皆さんは密かに笑いましたね。もし真冬にあなたに塩辛いお湯を一杯与えるなら、あなたはそれを飲みますか」「塩辛い飲み物は要りません。捨てます」そう生徒は答えました。「では、もし暑い夏に冷たい綺麗な泉の水を与えたらどうでしょう?」「それなら勿論、喜んでいただきます」と生徒は言いました。「あなたは今の質問をよく考えましたか? 冷たい綺麗な水も、塩辛いお湯もそれぞれ役に立つのです。冷たい水は乾いたのどを癒し、塩辛いお湯もうがい薬として使えば炎症を起こしたのどを癒します。ですから、皆さんもよく理解してほしいのです。物事の内容ではなく、人は物事の受け止め方によって幸福に感じたり不幸に感じたりします。」先生はこの生徒を見つめながら真剣に教えました。「人生で苦しい時も幸せな時も、実はその中に幸福が隠されています。思いがけない出来事に対して不満と絶望を示すなら、あっという間に不幸が襲ってきます。反対に、思いがけない出来事を落ち着いた気持ちで受け止めるなら、必ずゆっくりと静かに幸福が近寄ります。気持ちが落ち着かずイライラするなら、あなたの人生はあらゆる面で崩れるでしょう。なにも心配しないで、不平・不満を言わない人は、困難な試練を落ち着いた気持ちで簡単に乗り越えるに違いありません」。生徒たちがこの話に興味を示し、目を輝かせたので先生は更に話しを続けました。

 「あなたたちがよく分かるように、今日、特別な準備をしました。今から(注1)ホットチョコレートを用意しますので、テーブルの上のコーヒーカップを各自取ってください」。そう言いながら、先生は色んな形や様々な材料(粘土、グラス、磁器、木造、プラスチック, 紙)で作ったコーヒーカップをテーブルの上に置きました。そうすれば生徒たちは多分一番値打ちのあるカップを選ぼうと競うことを先生は気付いていました。思った通り誰も如何にも安っぽい安いコーヒーカップは取りませんでした。先生は何も言わずに、生徒たちが選んだコーヒーカップに温かく美味しいホットチョコレートを注ぎました。生徒たちは、幸せを感じながら深く味わって飲みました。

 生徒たちが飲み終わった後で、「あなたたちは美しいコーヒーカップ、あるいは値打ちのあるコーヒーカップを選びました。人は自分にもっと合う良い品物を求めるので、いま持っていない物に対して不平・不満の思いが出てきます。豪華で綺麗なコーヒーカップであっても、素朴で質素なコーヒーカップであっても、中に温かい飲み物を入れられます。中に入っているホットチョコレートの味に何も変わりはありません。ですが、あなたたちは中に入っているホットチョコレートのことを考えずに、綺麗な美しいコーヒーカップを選ぶことに一生懸命でした。とても残念ですが、今の事を言い換えれば、ホットチョコレートは人生であり、コーヒーカップは社会の中で人が得る立場です。コーヒーカップはホットチョコレートを入れるだけの役目であるのと同じように、社会での立場はその人の人生に値打ちを与えることができません。ただ人生に奉仕するだけです。自分が得た立場をずっと見つめる人は、人生の幸せを味わうことを忘れがちです。ですから、人生が与えるものを素直に頂くなら人生はとても素晴らしいと感じるようになり、不平や不満・苦情を言う理由が消えてしまいます。問題は自分のコーヒーカップに何を入れるかです。綺麗な泉の水か、それとも塩辛いお湯なのか、あるいは酸っぱいお酢か、反対に甘くて美味しいホットチョコレートなのかです」。そう先生は話しました。

 「私たちは自分のために生きる人はなく、わたしたちのために死んで復活したキリストのために生きています」(参照:ローマ14,7-8)。自分の人生にキリストを受け入れた人は、愛の完成、即ち永遠の幸せに導かれるでしょう。ですから、毎日信仰のコーヒーカップに主と共に生きる喜びを注ぎましょう。そうすれば、雨の時でも、嵐の時でも、太陽いっぱいの晴れた時でも、心満たされた平穏な人生の素晴らしさを味わえるでしょう。

注1)ホットチョコレートは、ココアやココアバターと砂糖が混入されている板チョコレートへ直接お湯や温かいミルク等を注いで作るか、あるいはダーク、セミスウィートまたはビタースウィートのチョコレートを小さく刻んで、砂糖を加えた温かいミルクへ入れかき混ぜて作る飲み物。


賢いカササギ婦人

 あるところに、カササギが住んでいました。このカサギ婦人は、古い樫の木の枝に丈夫な巣を作りました。そこは安全な場所です。しかし、この木の根もとの隙間に一匹の蝮が既に住んでいることにカサギ婦人は気が付きませんでした。それに気が付いたのは、自分の巣の中に五つの綺麗な卵を産んでからでした。とても不安になったカサギ婦人は恐れを感じながらこう考えました。「きっと、この蝮は私の卵ちゃんたちの臭いに気付き木を登って、食べてしまうことでしょう。何もせずに、待っているだけでは危ない!何とかしなくっちゃ…」。

 そこでカサギ婦人は、枝の上に立ち、丁寧に蝮に声をかけました。「蝮さん、私たちはご近所さんですからどうぞ宜しくね。仲良く暮らしましょうね。私はあなたの静かな生活習慣を守るために歌うことをやめます。その代わりに、あなたは私の卵ちゃんたちを奪わない約束をしてくださいね」とカサギ婦人は丁寧にお願いしました。「えっ!とっ、とんでもないことだよ。ぼくはこの冬ずっと断食していたんだよ。だから今、お腹がペコペコだよ。卵があるんだって?いいね。ありがたいことだ、早速ご馳走になるとするか!だってぼくは卵が大好物なんだから」そう蝮は答えました。それを聞いて、カサギ婦人は怒って自分の巣に戻りました。

 その後、カサギ婦人が食べ物を探しに行った時のことです。王様の宮殿の上を飛んでいる時に、お姫様の部屋の机の上にダイヤモンドの首飾りが置いてあることに気付きました。それを見た途端、カサギ婦人によい考えが浮かびました。さっそく、カササギ婦人は実行します。サッとお姫様の部屋に入り、お姫様の目の前で首飾りを口に挟んで逃げたのです。しかし、どこへ行ったかをお姫様に教えるために、ゆっくりと飛びました。お姫様は窓から大声で叫びました。「誰か、このカサギを追いかけて…!ダイヤモンドの首飾りを盗んだ泥棒よ!ほら、見て!あそこの樫の木に止まったわよ。さあ、早く私の首飾りを取り戻してちょうだい!」その声を聞いて、宮殿の外で立っていた兵隊たちは、樫の木の方へ走り始めました。

 彼らが木の近くに着いたとき、カサギ婦人は口ばしにダイヤモンドの首飾りを挟んだまま、彼らの方へ飛んで来ました。そして彼らが見ているのを確認して、わざと蝮の住んでいる所に首輪を落としました。自分の入り口に何かが落ちた音を聞いたは外へ出ました。蝮ダイヤモンドの首飾りを見るや否や、兵隊たちは蝮を見つけました。兵士たちはすぐに槍でこの蝮を殺しました。そして、首飾りをお姫様に返しました。カササギ婦人は神に感謝しながら、自分の巣に戻りました。そして安心して自分の子たちの誕生を待ちながら、五つの卵ちゃんたちを愛情込めて大切に育てました。

災いや疫病、あらゆる危険、これらから人は自分の命を守るため、また親しい者の命を守るために色々考えて工夫します。ずる賢さで有名な古代ギリシャの英雄ユリシーズや聖書に出てくる怪力の持ち主サムソも危険を防ぐために工夫しました。正当防衛の名によって自分を守ることができても、キリスト者である私たちは神により頼みます。「恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」(参照:エレミヤ1,8)と神は約束したからです。私たちの命は神の手の中置かれているので、蝮であるサタンでさえ「だれも神である父の手から奪うことはできません」(参照:ヨハネ10,29)。ですから、感謝の内に、落ち着いた心で神が与えてくださる安心と安らぎを味わいましょう。



太った賢い雄牛

 アフリカのコンゴ民主共和国に、たくさんの動物たちと鳥たちが安全に住んでいる深い森がありました。ある日、力の強い太った雄牛がこの森に入り、誰も使っていない大きな洞窟を偶然見つけました。その近くには川が流れていて飲み水も手に入ります。しかもすぐそばに緑の草原もあったので、雄牛はここに住むことに決めました。しばらく経つと森の動物たちや鳥たちも彼の友だちになり、雄牛は安心してとても元気で幸せな毎日を送っていました。

 しかし、数か月経ったある日のこと、洞窟のそばで雄牛がのんびりと休んでいた時のことです。雄牛の近くで一の若いライオンが自分の様子をじっと見つめていることに気が付きました。美味しそうな獲物があるというような目つきでこちらを見ています。まだ数回しか狩りに出かけたことのないこのライオンは、これほど大きな雄牛を今まで見たことがありませんでした。しかし、シマウマやガゼル、アンテロープに似ていたので、このライオンは雄牛の肉もきっと素晴らしく美味しいと想像していました。ライオンは嬉しそうにニヤニヤしながら、想像の中で雄牛の肉を味わっていて、今にもよだれをたらしそうになっていました。ところが、ライオンの気配を感じていた雄牛は、命の危険を感じて洞窟の方に向かい次のように叫びました。「おぉ〜い、喜んでくれ。俺たち夕食の食材を見つけたよ。すぐ近くに一頭のライオンが来たよ。もう少し近づいて来たら捕まえるから待っていろよ」。それを聞いた若いライオンは、大慌てで逃げて行きました。彼は雄牛に騙されていることが解らなかったのです。

 大慌てで逃たため、若いライオンは疲れてハァハァと息をきらせていました。そんな時、一匹のジャッカルと出会いました。「どうしてそんなに息を切らせるほど疲れているのですか」とジャッカルは尋ねました。若いライオンは出来事を最初から最後まで詳しく話しました。「あはははは。あなたは騙されたのですよ!」。笑いながらジャッカルは答えました。「私と一緒にもう一度そこに行って、あの太った雄牛をご馳走になりましょう」と誘いました。しかしまだ恐れていた若いライオンは、ジャッカルの話を信じようとせず、一緒に行くことを断りました。そこでジャッカルの頭によい考えが浮かびました。「さぁ、美味しいご馳走の所に行きましょう。恐れることはありません。二人で強くなったらいいのです。私の尻尾とあなたの尻尾をしっかり結びましょう。もし雄牛が私たちと戦うのなら、私が先に捕まりましょう。その間にあなたは逃げればいいのです。私はあなたのために命を捨てます。しかし、もし私たちを見て太った雄牛が逃げたなら、あなたは彼に騙されたことがはっきり解るでしょう。」とジャッカルはライオンに提案しました。少し落ち着いてきた若いライオンは、提案された計画に賛成しました。ジャッカルとライオンは自分たちの尻尾を互いにしっかりと結んで、雄牛の洞窟の方に意気揚々と出かけて行きました。

でのんびりと休んでいました。雄牛はジャッカルとライオンが近寄って来ることに気が付きました。しかし今度は若いライオンを騙したようには簡単にジャッカルを騙せないと悟り、雄牛はジャッカルに向かって怒って叫びました。「おい、おい、ジャッカル君。確かに俺は家族のために二頭のライオンをここに連れて来るように頼みましたよ。しかし、どうしてライオンを一頭しか連れて来なかったのですか!私の子供たちを飢え死にさせたいのですか!」。すると若いラインは今度も雄牛が自分を騙していることに気が付かず、恐怖のあまりに泡を食って逃げ出してしまいました。ライオンは鋭い棘のあるサボテンや茨の茂った藪の中を必死に逃げていきました。しかし、自分の尻尾がジャッカルの尻尾としっかりと結ばれていることをすっかり忘れていたので、ジャッカルを引きずって走っていることに気が付きませんでした。引きずられたジャッカルは全身傷だらけになってしまいました。この出来事があってからは、ジャッカルもライオンも二度と雄牛のいる洞窟のそばにやって来ませんでした。賢い雄牛のおかげで、森の動物たちや鳥たちは幸せに暮らすことができるようになりました。

 蛇のように賢く、鳩のように素直に」(参照:マタイ10.16)行動する人は、危険な状況に直面して、冷静さを保ち賢く慎重に対処します。「用心は安全の母」とフランスの諺は教えています。「転ばぬ先の杖」として慎重さを身につけている人は、日常生活の思いがけない出来事から自分の命を守ることができます。しかし、同時に慎重さは人を尊敬することや人を傷つけないことを要求します。また慎重さは、鳩のように美しく柔和であり、平和で貴重な徳です。「蛇のように賢く」行動することは、人を噛むことではなく、害を受けないために上手に危険を防ぐことを意味するからです。そういうわけで聖書の言葉をここで思い巡らす必要があると思います。「慎重さがあなたを保ち、英知が見守ってくれるのです」(参照:箴言2,11)。



目の悪い三人の兄弟たち

 ある町に年老いた三人の兄弟が同じ家に住んでいました。三人はいずれも目
が悪いことで困っていました。

 長男と次男の目が特に悪かったので、三男は彼らに言いました。「兄さんたち二人の目はとても悪いので、買い物の支払いをする時、お金の区別ができません。だから、今から私が家計の責任を取ります。私は兄さんたちよりもよく見えますから」。それを聞いた次男は「私たちよりもおまえの方がよく見えるのなら、それを証明してくれるかい」と言い返しました。それを受けて長男も「そうだ、ちょうど今夜、我々の教会の主任司祭が教会の入り口に新しい看板を置くと言っていた。明日、その看板に書かれている内容を三人のうち誰がはっきり読めるか、試したらどうだろうか」と提案しました。三人はこの提案に承諾し、それぞれの仕事に戻りました。

 夕方、長男は密かに家を出て行き、主任司祭と出会いました。「神父様、神父様。今夜、神父様が教会の入り口に新しい看板を置くと聞きました。そこにはなんと書いてあるのですか、教えてくださいませんか。私は目が悪いので読めません。教会の人になんと書いてあるのか聞くのは恥ずかしいのです。ですから、今、教えてください」。そう長男は願いました。「ラテン語で 『いつでも正直に生きよう』 と書いてあるのです」と神父は答えました。長男は非常に満足して家に帰りました。しばらくして、次男が教会に来ました。主任司祭に会うと次のように尋ねました。「神父様、神父様。今夜、神父様が教会の入り口に置く予定の看板にはなんと書いてあるのでしょうか。看板の文章や飾りがあれば教えてください。目が悪くて、はっきり見えないことを兄弟たちに知られたくないのです」。次男はうやうやしく願いました。主任司祭は看板に書かれた文章とそれを囲んでいる白とピンクの花のふち飾りを教えました。次男が家に戻って来るのと入れ違いに三男も教会に密かにやって来て、看板の文とふち飾り、看板を作った人のサインの名前が書かれた場所について主任司祭に質問しました。「作った人のサインは看板の右下にありますよ」と神父は答えました。それを聞いて三男は急いで自分の家に戻りました。三人の兄弟は、主任司祭に聞いたことを秘密にして、いつも通り夜の食事を三人で取ることにしました。


 次の朝、三人の兄弟は教会に行きました。まだ入り口から15メートルも離れた所で、長男は叫びました。「おお!私はあの看板の文字がよく見える。ラテン語で『いつでも正直に生きよう』と書いてあるじゃないか!」「えぇ、びっくり!兄さんは私よりもよく見えるのですね。でも、私にもその文字ははっきり見えます。ところで白とピンクの花のふち飾りを兄さんは見えますか?」と次男は得意げに言いました。「えっ? 花のふち飾り、そんな物どこにあるんだい…」と途方に暮れた長男が聞きました。「あそこですよ。ラテン語の文字を綺麗に囲んでいるでしょう?」すると三男が自信を持って「兄さんたち、私もそれがよく見えますよ。でも、兄さんたちは看板を作った人のサインが見えますか」と問いました。「えぇ・・・作った人のサインなんてどこにあるの?」と長男も次男も驚いて叫びました。「ほら、あそこだよ。看板の右下にあるでしょ。兄さんたちは見えませんか?私には、よく見えますけど」。そう三男が偉そうに言いました。

 ちょうどその時、主人司祭が教会から出ました。「おはようございます。みなさんは新しい看板を見るためにいらっしゃったのですね。ごめんなさい。今、あなたたちが見ている看板は先月のものなのですよ。実は、看板を届けてくれる人に事情があって、まだ来ていないのです。午後には入り口に立てかけられると思います。よかったら、もう一度午後に新しい看板を見に来てください。今度の看板はとても綺麗ですから」。そう主任司祭は三人の兄弟を誘いました。目の悪い三人の兄弟たちは恥ずかしくなり、何も言わずに自分たちの家に戻りました。きっと彼らは「いつでも正直に生きる」ことについてじっくりと考えることでしょう。


 イエスは教えました。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」(参照:ルカ6,39)と。いつでも正直に生きるために、人は自分の弱さや欠点・短所をはっきりと認める必要があります。なぜなら、人をすことによって、いつか、自分が掘った穴に陥ることになるからです。「まず自分の目から丸太を取り除け、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができ」(参照:ルカ6,42)、「真理はあなたたちを自由にする」(参照: :ヨハネ8,32)とイエスは教えています。ですから心の目を大きく開いて、
あなたは誰ですか

ある日、富岡文子は不思議な夢をみました。自分が死んだとき、美しい天使が近づいて来て、聖ペトロの机の前に連れて行かれました。聖ペトロは大きな「命の本」を開き、微笑みながら文子に次の質問をしました。「あなたは、誰ですか?」。文子は答えます。「私は67歳の女性です。ご覧の通り私はスッピンですが、とても若く見えるでしょう…」と。聖ペトロは髭を撫でながら、「あなたの歳を教えてくださいと聞いていません。さあ、答えて!『あなたは誰ですか?』」。もう一度、聖ペトロは尋ね直しました。「私は日本人です。大阪に住んでいます」と文子は答えました。聖ペトロは「あなたの国籍や住んでいる場所を聞いていません」。「そうですか。じゃあ、私は富岡文子です。市長の忠実な妻です」と文子は答え直しました。少し苛立って右の手の指で机を強くトントンと叩きながら「あなたの名前も、あなたが誰の妻であるかも聞いていません。『あなたは、誰ですか?』」と聖ペトロはもう一度繰り返して尋ねました。やれやれとため息つきながら、今度こそこの答えで大丈夫だと思いながら文子は答えます。「私は、小学校の先生です。また、三人の子供を礼儀正しく育てた母です」。文子は自信を持って答えました。聖ペトロは鋭い目で彼女をにらみながら「あなたの仕事や子どもの教育について尋ねていません。ただ、『あなたは誰ですか?』と尋ねています」と大きな声で言いました。

困った文子は、しばらくよく考えてから「私はカトリックの熱心な信者です」とニコニコしながら答えました。「あのね、私はあなたの宗教を聞いていません。ただ、『あなたは、誰ですか?』とずっと同じ質問を尋ねています」と聖ペトロは呆れて言いました。「でも、私は毎週日曜日には忠実にミサへ行き、教会の維持費を納め、貧しい人々や谷間にいる人々、困っている者にも救いの手を差し伸べています。近くの病院の病者もたびたび見舞っています」と文子は真顔で答えました。「あなたが何をしたかと言う事など私の質問と全く関係がありません。今すぐ私の質問に答えなさい。『あなたは誰ですか?』」そう言いながら、聖ペトロは自分の鍵の束を文子の鼻の下で振り動かしながら厳しい口調で言いました。それを聞いて不安になってきた文子は、小さな声で次のように答えました。「私は人生の旅を終えた一人の人間です」と。すると聖ペトロは自分の席から立ち上り机を両手で強く叩きました。「あなたは、私のこの簡単な質問に答えない限り、絶対に天国に入ることはできません」 と聖ペトロは大声で叫びました。その大きな声を聞いて、文子は驚いて恐怖に怯え、心臓がバクバクしました。丁度その時に、目を覚ましました。彼女は夢で良かったとほっとしましたが、まだ心臓は震えています。

次の日、昨夜の夢の体験が気になり何も手に着かないので、文子は自分の教会の主任司祭に夢で体験したことを打ち明けました。「神父様、聖ペトロはとても怖いお方です。質問の『あなたは誰ですか?』という意味が今も分かりません。私が本当に死んだとき、彼の質問に何と答えるべきでしょうか」と文子は尋ねました。主任司祭は自分の頭をかきながら、少し考えてから答えました。「そのときには、『私は神の慈しみと憐れみをとても必要としている罪びとです』と答えてください。きっと、聖ペトロはこの返事を待っているでしょう。なぜなら、イエスが掴まえられて臆病になっていた彼は皆の前で『イエスを知らない』と言いました、しかしその後、悔い改めてイエスの慈しみと憐れみに満たされた赦しを受けのです。心から自分の過ちを認める人は必ずイエスの救いを受けることを聖ペトロは知っています。だからこそ聖ペトロなら、天の国に入りたい人々が自分の罪深さを認めることを望んでいるに違いありません。『私は罪びとだ』という人に、聖ペトロは天の門を大きく開くでしょう」。そう主任司祭は文子に教えました。「そうだったのですね。神父様、ありがとうございます。そう言えば良かったのですね。それを是帯に忘れません」と文子は安堵しながら言いました。

 私たちの人生では、国籍や人種、社会的階級、自分が行なったこと、正しい生き方などが値打ちを与えているかも知れません。しかし、その人を救うのは、イエスの慈しみと憐れみだけです。そういうわけで、カトリック教会は信仰宣言である次の簡単な言葉を暗記するように教えています。「神の子、主イエス、罪びとであるわたしを憐れんでください」と。この言い易い言葉を宣言する人の前でのみ、天の門が開かれます。なぜなら、聖ヨハネが教えているように「神のみ前で安心できます。心に責められることがあろうとも、神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(参照:1ヨハネ319-20)。


なぜでしょう

 ロンドンの動物園の話です。母ラクダは自分の子どもと話すために、大きな木の下に子どもを連れてきました。すると子ラクダは母ラクダに尋ねました。「ねぇ、母さん、どうしてこの木の下に来たの?」母ラクダは答えます。「私たちは、本当は砂漠に住んでいるのですよ。砂漠は太陽の光線がとても強いから、木の陰で休む必要があるの」「へぇ、そうなんだぁ…。ねぇ、母さん、前から不思議に思っていたんだけど、どうして僕たちは背中に二つのこぶを持っているの?」子ラクダは聞きました。「それはね、私たちは砂漠に住んでいるでしょ、砂漠では水がないので、生き残るためにたくさんの水をこのこぶにストックしているのですよ」と母ラクダは説明しました。「じゃあ、ねぇ、母さん。どうして僕の毛は羊の毛のように柔らかくて暖かいけど分厚いのでしょう?」。「それはね、砂漠では日中はとても暑いけど、夜になると逆にとっても寒くなるからよ。私たちの柔らかくて暖かいく分厚い毛は、この寒さを耐え忍ぶために必要なのよ」と母ラクダは優しく子ラクダに答えました。

 しばらくの間、子ラクダはなにも言わずに黙って考え込んでいました。「母さん、母さん、僕、分からないんだ。どうして僕のまつ毛はこんなに長いの?」子ラクダは急に尋ねました。「それはね、砂漠ではよく砂嵐が起こるでしょ。だから、この長いまつ毛が目に砂が入らないよう、守ってくれるのよ」。母ラクダは答えました。子ラクダは「そうだったんだ。かったよ。でも、僕たちの足も首もちょっと長過ぎるように思うんだけど。それに足の先が丸いのはどうしてなの?」と、またしても子ラクダは聞きました。子ラクダが次々に質問するので、さすがに母ラクダも少しうんざりしました。「首が長いのは砂漠では砂丘が多いので地平線が見にくいでしょ。だから遠くが見えるように神様は私たちに長い首を与えてくださったのよ。そして、私たちが砂漠を早く、上手に歩くことができるように神様はこんな風に創られたのよ。こぶも、まつ毛も、すべて…」母ラクダはそう答えて、もう子ラクダが質問しないように望みました。

 「とても良くわかったよ。水をストックするために僕は2つのこぶを持っているし、長い首と足とまつ毛は砂漠の砂と砂嵐を耐え忍ぶためにあるんだね。それに柔らかくて暖かく分厚い毛のお陰で僕は砂漠の寒さを防ぐことができる。神様は僕を砂漠の生活に適応できるようにこんなに賢く創られたんだね。なのに、どうして僕たちは砂漠ではなくて、今ロンドンの動物園にいるの?」子ラクダは最後にこう尋ねました。この質問に対して母ラクダは何も答えることができませんでした。

 「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」(参照:マタイ9,16-17)とイエスは言いました。いくら人が素晴らしい才能に恵まれていても、その人が相応しい場所に置かれていない限り、彼の才能は役に立ちません。そして残念なことに、消え失せてしまいます。自分に合う環境の中に置かれている時こそ、その人は上手に自分の才能を尽くし、人の役に立つ者となり、よい結果をもたらすのです。


正しい判決を下す裁判官

  中世フランスのパリの街にどんな難しい訴訟に対しても、知恵を持って正しい判決を下すことで有名な裁判官がいました。

  ある日のこと、金持ちで有名な鶏肉屋の店主が、いつも店の前にいる貧しい男を裁判官の所へ無理やり連れてきました。「この男は、いつも私の店の前に座り、若鶏を串に刺して焼くばしい香りで自分のパンを食べているのです。『代金を払え!』と言っても、この男は『お金がない』と答えるのです。裁判官様お願いします。私の訴えを聞いてください。当然、私がもらうべきお金をもらえますように」と訴えました。訴えを聞いた裁判官は、自分の財布から数枚のコインを出しました。貧しい男にコインを渡しながら、次のような判決を下しました。「あなたは、鶏肉屋の前で、香ばしい肉の香り嗅ぎながら、自分のパンを食べたそうですね。それなら、今私が渡したコインを手に握り、強く振って音を出してください。このコインの音で店主が願う代金を支払ってください」。この判決を聞いた鶏肉屋の店主は、恥ずかしくなって何も言わずに逃げようとした。しかし、裁判官は店主が裁判の費用を払っていないので、支払うように判決を下しました。

  また他のある日のこと。町の中でもケチで有名な男が、泥棒を裁判所に引っ張って来ました。自分が庭に隠していたお金を泥棒が盗もうとしたのです。男は言います。「私は毎晩暗くなってから、庭に埋めた箱を開けて今日集めたお金と今までに集めたお金を数えて、箱の中に入れておく習慣があります。足りないかどうかいつも心配しているのです。ところが、こいつはそれに気付いて、私がいない時にお金を盗もうとしたのです。ある日、こいつが私のお金を持って逃げる前に掴まえました。神に感謝!どうぞ裁判官様、こいつを厳しく裁いてください」。そう訴えました。「あなたはこのお金で何をするつもりですか?」と裁判官は尋ねました。ケチで有名な男は「べつに何もしません。それを見るだけでとても幸せです」と答えました。「そうですか。では、そのお金はあなたには全く役に立っていませんよね。では、必要とするこの泥棒さんに与えましょう。あなたのお金の代わりに、同じ重さの大きな石を与えましょう。庭に埋めても、誰もそれを盗もうとは考えないでしょう。この石は、全く役に立たないあなたのお金と同じ値打ちですから」と裁判官は判決を下しました。ケチで有名な男は、泣きながら家に帰りました。

  また、次のような判決もありました。「この人に井戸を売ったが、井戸の水は売っていない。なので、持ち主は井戸の水を汲んではならない」という訴えがありました。訴えた人に裁判官はこう答えました。「そうであれば、あなたは井戸を買った人の井戸に自分の水を残す権利はありません。だから、井戸から水を全部出しなさい。それが出来ないのでしたら、井戸を買った人と井戸の水についての正しい賃貸契約を結び、水の預かり賃を払いなさい」と判決を下しました。

  また、別の判決は、あるパン屋についてのものです。このパン屋はパリの街はずれの田舎に住んでいる農家から美味しいバターを買う習慣がありました。ある日、パン屋は農家から買ったバターの量がだんだん少なくなっていることに気付きました。バターの重さを量ってみると、確かに量は少なくなっていました。しかし、農家は同じ値段でバターを売っているのです。騙されたことに気付いたパン屋は、農家の不正を裁判所に申し立てることにしました。裁判官は農家に尋ねました。「あなたは作ったバターの重さを量るために、何を使っているのですか」。裁判官が尋ねると、農家は「このパン屋がうちのバターを買い始めた時、当然、うちも彼の作るパンを買うのがいいと考え彼の店からパンを買っていました。ところが、先週、荷物が多くて両手が塞がっていたので、両手を自由にするために荷物を部屋に置くことにしました。たまたまだったのですが、パン屋で買ったパンを、秤の上に置いたのです。するとびっくりしてしまいました。250グラム買ったはずのパンは、何と215グラムしかありませんでした。ショックを受けた私は、このパン屋の不正を真似て復讐しようと決めたのです」。農家はそう弁明しました。それを聞いて裁判官は大笑いしました。「あはは、あなたがパン屋に行った復讐は、以前から不正を行っていた者の仮面をはがしましたね。二度とこのような不正を犯さないように、このパン屋を厳しく罰しましょう。さあ、金100デュカットの罰金を支払いなさい」と裁判官は判決を下しました。

 人を騙すことも、騙されることもよくありません。行なった悪は、それを犯した人に必ず返ってくるからです。「悪は会衆の中で露見する。穴を掘る者は自分がそこに落ちる」(参照:箴言26,26-27)と聖書も教えています。また「自分の裁く裁きで裁かれる。自分の量る秤で量り与えられる」(参照:マタイ7,2)とイエスは忠告しました。私たちの生き方が、人に役に立つ豊かな実を結ぶために、正直に生き、思いやりの心を持ち、誰であろうと人に尊敬を示し、必要なら助けの手を差し伸べしましょう。そして、悪戯(いたずら)(いじ)め、不正行為は自分に災いと不幸を引き寄せることを忘れないようにしましょう。


正しい判決を下す裁判官

  中世フランスのパリの街にどんな難しい訴訟に対しても、知恵を持って正しい判決を下すことで有名な裁判官がいました。ある日のこと、金持ちで有名な鶏肉屋の店主が、いつも店の前にいる貧しい男を裁判官の所へ無理やり連れてきました。「この男は、いつも私の店の前に座り、若鶏を串に刺して焼く香ばしい香りで自分のパンを食べているのです。『代金を払え!』と言っても、この男は『お金がない』と答えるのです。裁判官様お願いします。私の訴えを聞いてください。当然、私がもらうべきお金をもらえますように」と訴えました。訴えを聞いた裁判官は、自分の財布から数枚のコインを出しました。貧しい男にコインを渡しながら、次のような判決を下しました。「あなたは、鶏肉屋の前で、香ばしい肉の香りを嗅ぎながら、自分のパンを食べたそうですね。それなら、今私が渡したコインを手に握り、強く振って音を出してください。このコインの音で店主が願う代金を支払ってください」。この判決を聞いた鶏肉屋の店主は、恥ずかしくなって何も言わずに逃げようとした。しかし、裁判官は店主が裁判の費用を払っていないので、支払うように判決を下しました。

  また他のある日のこと。町の中でもケチで有名な男が、泥棒を裁判所に引っ張って来ました。自分が庭に隠していたお金を泥棒が盗もうとしたのです。男は言います。「私は毎晩暗くなってから、庭に埋めた箱を開けて今日集めたお金と今までに集めたお金を数えて、箱の中に入れておく習慣があります。足りないかどうかいつも心配しているのです。ところが、こいつはそれに気付いて、私がいない時にお金を盗もうとしたのです。ある日、こいつが私のお金を持って逃げる前に掴まえました。神に感謝!どうぞ裁判官様、こいつを厳しく裁いてください」。そう訴えました。「あなたはこのお金で何をするつもりですか?」と裁判官は尋ねました。ケチで有名な男は「べつに何もしません。それを見るだけでとても幸せです」と答えました。「そうですか。では、そのお金はあなたには全く役に立っていませんよね。では、必要とするこの泥棒さんに与えましょう。あなたのお金の代わりに、同じ重さの大きな石を与えましょう。庭に埋めても、誰もそれを盗もうとは考えないでしょう。この石は、全く役に立たないあなたのお金と同じ値打ちですから」と裁判官は判決を下しました。ケチで有名な男は、泣きながら家に帰りました。

  また、次のような判決もありました。「この人に井戸を売ったが、井戸の水は売っていない。なので、持ち主は井戸の水を汲んではならない」という訴えがありました。訴えた人に裁判官はこう答えました。「そうであれば、あなたは井戸を買った人の井戸に自分の水を残す権利はありません。だから、井戸から水を全部出しなさい。それが出来ないのでしたら、井戸を買った人と井戸の水についての正しい賃貸契約を結び、水の預かり賃を払いなさい」と判決を下しました。

  また、別の判決は、あるパン屋についてのものです。このパン屋はパリの街はずれの田舎に住んでいる農家から美味しいバターを買う習慣がありました。ある日、パン屋は農家から買ったバターの量がだんだん少なくなっていることに気付きました。バターの重さを量ってみると、確かに量は少なくなっていました。しかし、農家は同じ値段でバターを売っているのです。騙されたことに気付いたパン屋は、農家の不正を裁判所に申し立てることにしました。裁判官は農家に尋ねました。「あなたは作ったバターの重さを量るために、何を使っているのですか」。裁判官が尋ねると、農家は「このパン屋がうちのバターを買い始めた時、当然、うちも彼の作るパンを買うのがいいと考え彼の店からパンを買っていました。ところが、先週、荷物が多くて両手が塞がっていたので、両手を自由にするために荷物を部屋に置くことにしました。たまたまだったのですが、パン屋で買ったパンを、秤の上に置いたのです。するとびっくりしてしまいました。250グラム買ったはずのパンは、何と215グラムしかありませんでした。ショックを受けた私は、このパン屋の不正を真似て復讐しようと決めたのです」。農家はそう弁明しました。それを聞いて裁判官は大笑いしました。「あはは、あなたがパン屋に行った復讐は、以前から不正を行っていた者の仮面をはがしましたね。二度とこのような不正を犯さないように、このパン屋を厳しく罰しましょう。さあ、金100デュカットの罰金を支払いなさい」と裁判官は判決を下しました。

 人を騙すことも、騙されることもよくありません。行なった悪は、それを犯した人に必ず返ってくるからです。「悪は会衆の中で露見する。穴を掘る者は自分がそこに落ちる」(参照:箴言26,26-27)と聖書も教えています。また「自分の裁く裁きで裁かれる。自分の量る秤で量り与えられる」(参照:マタイ7,2)とイエスは忠告しました。私たちの生き方が、人に役に立つ豊かな実を結ぶために、正直に生き、思いやりの心を持ち、誰であろうと人に尊敬を示し、必要なら助けの手を差し伸べしましょう。そして、悪戯、虐め、不正行為は自分に災いと不幸を引き寄せることを忘れないようにしましょう。


“神の指”と呼ばれた男

  ある町に“神の指”と呼ばれる男が住んでいました。この男はひょんなことから、自分が特別な才能を持っていることに気づいたのです。ある日、男の目の前で子どもが泣いていました。偶然、男の右手の人さし指がほんの少し触れると、泣いていた子どもがすぐ笑うようになりました。このことに驚いた男は、急いで家に戻りました。半信半疑で家に帰った男は、片っ端から家の中のものを触りました。手で掴むと何も変化しませんでしたが、右手の人さし指で触れると、触れた物は全て変化しました。家の中にあるものを触ると、単に変化するだけでなく、男の意志に従って、それらの物は金や銅、木や石などの様々な物に変化したのです。ますます驚いた男は、今度は家の外に出ました。自然にあるものに対しても同じ変化が起きるか実験しようと思ったのです。驚いたことに、男の人さし指は自然の中にある物に触れても、遠くにある物を指で指しても自分の意志通りになりました。荒れ地を美しい花畑にすることができたかと思うと、反対に綺麗に咲いた花をあっという間に枯らすこともできました。男は毎日新しい体験を繰り返していきました。その結果、自分の人さし指は物を増やすことも、岩から水を出すことも、人の病気を癒すことも出来ることに気づきました。

 男はよく考えた上、この特殊な才能を皆の幸せのために使うことに決めました。人々は奇跡を行う彼の不思議な力を見て「この人は魔法使いだ」とか、「新しいメシアだ」とか、「この人は正に神の指だ」などと言い始めました。そのため、いつしか皆からこの男は“神の指”と呼ばれるようになったのです。“神の指”の噂を聞いた大勢の人々が、毎日遠くから次々とやって来ました。それぞれに必要な恵みを無償で受けました。なぜなら“神の指”は、タダで授かった才能を人々の幸せのため、無償で使いかったからです。そんなある日のこと、筋骨たくましく頑丈そうなのになぜか寂しそうな暗い顔した若者がやって来ました。若者は“神の指”に近寄って、「助けてください」と懇願しました。「何を望んでいるでしょうか。食べ物ですか、お金ですか、あるいは体の回復ですか」。“神の指”はそう尋ねました。その若者は「お前の人さし指が欲しい!」と答えるや否や、“神の指”の手を掴み、持っていた大きなナイフで右手の人さし指を切り落とし、うばい取りました。「やった!これがあれば、何でもできるぞ。自分の幸せは自分で作るのだ…」と言って、若者は逃げ去りました。若者は自分の家に戻り、奇跡を起こすために奪い取った指を使い、色々の物に触れてみました。ですが、何も変化は起きませんでした。その上、指が触れた物はみんなあっと言う間に消えてしまいました。奇跡が起こらないことに腹をたてた若者はカンカンに怒りました。「この役立たずの指め!」。若者は奪い取って来た指を傍にあったゴミ箱に投げ捨てたのです。

 ちょうどその頃、右手の人さし指を失った“神の指”は、手の痛みに耐えつつ、あることを考えました。失った右手の代わりに、左手の人さし指を使うことはできないかと考えたのです。不思議なことに左手でも右手同じ奇跡を行なうことができました。「“神の指”はもう奇跡ができないのではないか…」そう心配していた大勢の人々は喜んで彼のもとに訪れるようになりました。「今まで、あなたは右手の指だけで奇跡を実現していたのに、どうして左手の指でもできるようになったのでしょうか」と人々は“神の指”に尋ねました。“神の指”は笑いながら答えました。「きっと奇跡を行なう力は人の指の内にではなく、善を行ないたい人の心の中にあるのだと思います。しかし『右の手のすることを左の手に知らせてはならない』(参照:マタイ6,3)と言われているので、多分そのために左手の指でもできる事を知らなかったのでしょう」。“神の指”は答えました。それから“神の指”は神に召されるまで、以前のように、大勢の人の幸せのために自分の心を尽くし続けました。

 神は私たちの幸せを望んでいるので、一人ひとりにそれぞれの恵みを与えてくださいます。驚くべき奇跡のようなものでなくても、神が与える恵みは私たちの幸せを作り出すのに十分です。「慈しみ深い神の右の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない」(参照:イザヤ59,1)からです。昔と同様、石の板に十戒を刻んだ神の指は、今も、そしてとこしえに不思議な業を行い続けています。しかし奇跡を実現する力は、神の指にあるのではなく私たちの幸せを強く望む神の心の中にあります。人を批判する自分の人さし指を切り落とし、私たちも全ての人の幸せを強く望む心を持つように務めましょう。


悪魔たちの新生計画

  悪魔たちの長老サタンは、このところイライラしていました。最近、地獄に落ちる人間があまりにも少ないことが気になり、何をしたらよいか悩んでいるのです。数週間後、彼の頭によいアイデアが浮かんできました。それはカトリック教会のやり方を真似ることでした。早速サタンは、全ての悪魔たちを神殿に呼びつけました。ローマ時代に偶像礼拝が行なわれたこの神殿に、あっと言う間に世界中から悪魔たちが集まって来ました。サタンがあまりにも激怒していたからです。

  高慢なサタンは集まった悪魔たちに話し始めました。そして皆の前で大きなトランクを開きました。「いいか!お前たちもよく見るがよい。これらのものは、憎んでいる人間たちを永遠の滅びに落とすために、俺たちがよく使う大切な道具だ。今まで俺たちは妬(ねた)み、高慢、恨み、嫉妬、軽蔑、みだらな行いや肉欲の罪、虚栄、貪欲、殺意などを利用していたが、それらの道具は危険だと人間に知られている。それどころか、忌まわしい神の掟と忠告に耳を傾ける大勢の人びとは、これらの道具を避けて、完全に無視している。だから、俺たちの苦労は全く無駄になっている。この状態を俺たちはずっと続けるわけにはいかない!」。そう大きな声でサタンは叫びました。それを聞いた悪魔たちは、同意して大きく頷(うなず)きました。

  「こうなってしまったのも、人間を誘惑の罠に落とすためのお前たちの工夫が足りないからだ! この役立たずが…!」。サタンは罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)を喚(わめ)き散らしました。集まった悪魔たちは、怒っているサタンを見て恐れて震えあがりました。「俺は支配者だ。だからお前たちの意見を聞く必要が全くない。俺が全てを決める。俺はよくよく考えた結果、皆に新しい道具を勧めたい。この頃、疲れ果てた人間は簡単に落胆している。休みなしに働いている父親、子供の教育に対する力も忍耐もない母親、あるいは学校で勉強のできない子供たち。こいつらに「落胆」の道具を手渡せ。そして絶望に導け。よく覚えておけよ、多くの人間は落胆を罪としては認めない。それどころか、人間どもはうつ病や過労、肉体や精神の酷使(こくし)の避けられない結果だと見ている。だから、人間どもに対して、「落胆」の道具を使おうではないか! 落胆は簡単に人の心の中に入り込む。だからこの落胆を人間の心の中に入れたら、俺たちは他の全ての誘惑を入れることができる。不満を抱いている人、病気で苦しんでいる人、経済的に悩んでいる人たちを俺たちの的にしようではないか!」。この提案に集まった悪魔たちは、大いに賛成しました。そして高慢なサタンはこの「新生計画」によって最初の悪魔たちのシドノスを締めくくりました。

 信仰に生きる私たちは「絶望のある所に希望をもたらすこと」(参照:アシジの聖フランシスコの祈り)を知っています。また聖歌として歌います。「栄光の希望であるキリスト」(参照:コロサイ1,27)に強められて、私たちはアブラハムのように「望みのないとき、望みを抱いて」(参照:ローマ4,18)信じています。希望は全ての絶望に打ち勝つと信じています。私たちの人生は幻想や欲望、喜びや苦悩、計画や立ち上げたプロジェクトの失敗の連続などではありません。私たちの人生は、神が私たちと共に歩みながら書き続ける「聖なる物語」です。絶望に打ち勝つ信仰は「望んでいる事柄を豊かに与える(参照:ヘブライ11,1)ことを私たちは知っています。ですから全人類に「絶望」を提案するサタンに、私たちは確信をもって「栄光の希望」であるキリストを提案しましょう。


お爺さんの涙を拭く少年

  病気の友達を見舞うため7歳の少年とそのお母さんがパリの聖ヨセフ病院に行きました。少年は歩きながら自分の嫌いなものや色々な出来事についてお母さんに話しました。「3年生のトム君が皆を虐めているよ」、「昼食の野菜はおいしくないなぁ」、「デザートが足りないよ、もっと食べたいよ」など自分の周りで起こった出来事について夢中になって話しました。お母さんは少年の話を聞いた後、次のように尋ねました。「もし私がおやつに大さじ1杯のマーガリンを食べさせたらどう思う?」「そんなの、絶対に食べられないよ」と少年は答えました。「それじゃあ、生卵と苦いココアならどう?」「そんなものは嫌だ、いらない!」。直ぐに少年はいかにも嫌だという顔をしました。「それじゃ、おやつに小麦粉の小さな袋と重曹を小さじに入れて渡したらどう?」「そんなの食べられないよ。絶対に嫌だ!」と少年は即座に答えました。

  お母さんは少年を見ながら、つぎのような説明をしました。「よく聞いてマチアス。マーガリンや生卵、苦いココアや小麦粉、重曹なんて、そのままでは誰も食べないわよね。そのままでは美味しくないからですよね。でも、これらの美味しくないものを一つひとつ上手に混ぜてオーブンで焼けば、とても美味しいチョコレートケーキを作ることが出来るのよ。学校での色々な問題があったり、やんちゃな子供の悪戯を受けたりするのって、誰でも嫌よね。でも、こういう耐え忍びにくい物事が、人生に豊かさをもたらすのよ。自分にとって受け入れたくないことや望ましくない問題を毎日少しずつ体験することで、人は段々立派な大人になるのです。ですから、勇気を出しなさい。あなたが嫌いなもの、食べたくないもの、避けたい問題に真っ直ぐに向き合うなら、必ず豊かな体験を持つ立派な大人になれます。忘れないでね」。お母さんは優しく少年に説明しました。

  話しているうちに、二人は病院に着きました。病院の長い廊下を歩いていると、病室のドアの前で、知り合いのお爺さんがひどく泣いていました。看護師の話によると、愛する妻が少し前に亡くなったという事でした。看護師たちが彼女の体を綺麗にする間、お爺さんは廊下で待つようにと言われたそうです。それを聞いた少年はお母さんの手をそっと離して、そのお爺さんのそばに行きました。そして何も言わずにお爺さんの膝にちょこんと座りました。時々、少年はお爺さんの髭に触れたり、彼の頬に頬ずりをしたり、自分のハンカチでお爺さんの涙をぬぐったりしてしまいました。お爺さんは、泣きながら少年の思う通りのことをさせました。暫くして看護師がお爺さんを呼びに来ました。亡くなった妻を寝かせてある病室に連れて行ったのです。一人になった少年のところにお母さんが来て尋ねました。「あのお爺さんを慰めるために、膝に座ったの?」少年は答えました。「いいえ、違うよ。ぼくはお爺さんが思いきり泣いて涙を出すのを手伝っただけだよ」少年は、お母さんに尋ねました。「ねえ、お母さん。ぼくは人の問題と向き合ったから、立派な大人になれるかなぁ…?」。お母さんは目の隅の涙を拭きながら「えぇ、きっとあなたは立派な大人になりますとも」と誇らしげに答えました。

  私たちは、試練や災い、病気、あるいは死でさえ「神を愛する者たちには、万事が益となる」(参照:ローマ8,28)と知り、キリストに結ばれて信仰の内に全てを受け止めるように努めています。試練や人生の思いがけない出来事は、私たちを新しい人間として形作ります。「キリストに結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです」(参照:2コリント5,17)と聖パウロは教えています。上記の物語の少年のように、イエスは苦しんでいる人の傍にいて、何にも言わずに人の涙をぬぐい、ご自分の優しさを示し、人が慰めを得るまで涙を流すのを手伝います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(参照:ローマ12,15)こと、これこそ主イエス・キリストと全てのキリスト者に与えられた貴重な使命です。この使命を果たす人は必ず「愛の完成」に導かれるでしょう。


七つの仮面を持つ男

   あるところに七つの仮面を持つ男がいました。 男はいつも仮面を被って歩いているので、きっと病気で自分の崩れた顔を隠すために仮面を付けているのだと、町の人々は思っていました。実はそうではなく、この男は自分醜い男だと思い込んでいたからです。彼にとって自分の鼻は長過ぎ、目は大き過ぎ、耳は宇宙人のように突き出ていました。口の大きさは顎の大きさに合わず、額は大きくて広過ぎました。そんな彼は「これからは鏡に自分の姿を映さない」と決めました。自分をありのままに見ることも他の人に見られることも恐れていました。考えた末に、彼は自分の顔を自分にも他の人にも見せないように仮面を被ろうと思いつきました。どうせ仮面を被るなら最先端のファッションとして、曜日によって変えようと思いつき、大きな町まで行き、7つの違う仮面を買って来ました。毎朝起きると直ぐに彼はその曜日用の仮面を被り、それから服を着て仕事に行く習慣をもっていました。

  仮面を被る毎日を過ごしていたある夜、彼が疲れて熟睡していると、一人の泥棒が彼の家に入りました。泥棒は、七つの仮面をすべて盗んでいったのです。次の朝、何も知らない彼は、深い眠りから覚めました。辺りを見回して、仮面が一つも無いことに気付きパニックに陥りました。どうしたらいいのか解からなかったので、とにかく自分の顔を隠すために、頭にベールを被ったまま、仮面を盗んだ泥棒を探すために町に出てきました。勿論、泥棒を見つけることは出来ませんでした。困った事に、この町では仮面を売っている店もありませんでした。男は絶望の底で悲嘆に暮れていました。

   それから一週間が過ぎましたが、男は泥棒を見つけるための無駄な努力を続けていました。くたびれ果てた男は、町の教会の広場のベンチに座り込み、大声で泣き始めました。泣き声を聞き、一人の老女が教会の門を出て来ました。男の憐れな姿を見て近寄り、老女は尋ねました。「こんにちは。失礼ですが、どうしてあなたは泣いているのですか。差し支えなければ、あなたの悲しみの理由を話して下さいませんか」と優しく彼に聞きました。「僕は、醜い男です。僕は自分の顔を隠すため、七つの仮面を持っていました。ですが、誰かがそれを全部盗んでいったのです。僕はもう普通の生活ができません。僕は今とても傷付きやすくなっています。みんなが僕の本当の顔を見ているのです」。彼は嘆きながら答えました。「まあ、まあ。それは、それは。私を見てごらんなさい。私は生まれてからずっと、ありのままの顔を皆に見せています。歳をとっても、お化粧という仮面などは決して使いません。だって、生まれつきの顔が一番美しい顔ですから。あなたもとても美しい顔を持っていますよ。光り輝くあなたの顔は、あなたを生んだご両親の愛を現しているのです。その美しい顔を仮面で隠すなんて、大間違いですよ」老女はそう言いました。「私を信じて。今まであなたのように美しい顔の男性を見たことがありません。あなたにこんなに美しい顔を与えてくださった神様とご両親はきっと幸せでしょう」と言いながら、自分のバッグから小さな鏡を取り出して彼の手に渡しました。鏡を手にすると、男は何年間も見なかった自分の顔をこわごわ覗いてみました。そこに映っていた顔は、彼が望んでいた全ての完璧さをもっていました。非常にびっくりしました。大いに感謝した男は、自分の家に戻りました。そしてこれからは「素顔で」生きることに決めました。

  私たちは「本音」と「建前」という二つの仮面をもっています。私たちは、生まれてから神の似姿を受け、さらに洗礼を受けるときに神の顔の栄光の輝きを受けました。聖パウロが教えている通り「主の方に向き直れば(回心)、覆いは取り去られます」「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しています」(参照:2コリント3,1618)。偽善者のような生活を送らないために、神がその子供である私たちに与え下さった顔と姿をありのままに、よく見せましょう。そうすれば、きっと私たちを見る人々が、私たちを照らしている神の栄光を発見することでしょう。


天使の店

   小さな村の教会の広場に一軒の新しい店が開店しました。なんとその店の管理人は、とても美しい天使でした。早速、好奇心旺盛な青年がいま開店したばかりの店の中に入って行きました。しかし、目を開いてよく見ても、その店の中には何もなく、商品も商品を飾る棚もありません。不思議に思った青年は「このお店では、何を売っているのですか」と尋ねました。天使は答えて「はい、この店では何も売っていません。ただ、私は頼まれた物をすべて、無償で差し上げます。しかし、気を付けてください。頼むのは一度だけです。役に立たないもの、危ない物、あるいは遊ぶためのものなどは決して差し上げません。ですから、あなたが何か欲しいものがあるのでしたら、よく考えた上で頼んでください。今日、一日よく考えて、明日の朝もう一度ここに来てください。あなたにとって、あるいは人々にとって最も大切な事を頼めばよいと思います。お願いです、くれぐれも良く考え、よく祈ってから、頼むものが決まったらまた来てください。お待ちしています」と天使は青年に告げました。

  青年はこの天使の話を心に納めて、自分の家に戻りました。彼は他の仲間たちと同じように、スマートフォンや新しいコンピューターやマウテンバイクなどを欲しいと思っていました。しかし、あの天使の言葉を思い出すと、なにか他のものを頼まないといけないと思うようになりました。一日よく祈り、よく考えて、次の日の朝早く、青年はもう一度天使の店に行きました。「おはようございます。昨日、一日よく祈って考えました。やっと自分や他の人たちにとって役に立つものが何か分かりました。ぜひ私に平和に満ちた大きな樽と正義の溢れる袋と愛のつまった缶をください」と青年は天使に願いました。「どうしてそのようなものを要求するのですか?」と天使は聞きました。すると青年は「それらのものが無ければ僕の心にも、家族の間にも、また学校や村やこの国にも、幸せが来ないからです」と青年は答えました。

  天使は慈しみの眼差しで青年を見つめながら「あなたの願いは正しいとよく分かりました。しかし、私はそれを与えることはできません」と微笑みながら天使は説明しました。「えっ、それはおかしいです。昨日、あなたは何でも頼むものを与えると言われたではありませんか」と青年は言い返しました。「はい、そうです。確かに私はそう言いました。しかし私は物事の種しか与えられません。ですから、あなたはそれを丁寧に植えて、神様がそれを成長させてくださるようによく祈りなさい。あなたが願った平和と正義と愛で満たされている三つの種を与えますので、大切に育ててください。お願いしましたよ。はい、では手を出して下さい。貴重な平和の種、正義の種、愛の種を、一粒ずつ差し上げます。落とさないように気をつけてね。そしてこの種は土の中ではなく、あなたの心に植えてください」。青年はこの小さな三つの貴重な種を手の中に強く握って、急いで家に帰りました。そして、すぐに心に植えるために大きく口を開いてこの三つの種を飲み込みました。

  私たちは平和を望み、捜し求めますが、中々実現できません。「平成」や「令和」などのような新しい名前や元号をつけても、平和は直ぐには現れません。「平和の君」(参照:イザヤ9,6)であるイエスだけがこの世が与えることのできない真の平和をくださいます(参照:ヨハネ15,27)。神がくださる恵みをきちんと受け、守り、育てて、たとえ話の青年のように私たちも「平和の手」「正義の働き手」「愛の手」になって、祈りながら世界に幸せをもたらしましょう。「平和、正義、愛を実現する人々は、幸いである。神の子と呼ばれる、また、天の国はその人たちのものである」(参照:マタイ5,9-10)からです。


 

  ある町にとても自信過剰な男がいました。この男は自分の家で一番広い部屋の天井と壁と床を鏡張りにしました。一日中この部屋に入って満足している男は、自分の姿を隅から隅まで細かく見ていました。自分を上から見て、横から見て、下からも見て、前と後ろもよく見ることで、男は生きる力を受けていると思い込んでいました。自分の姿をずっと見ていれば、日常生活に起こって来る出来事に何も恐れることなく平常心で向き合えると信じていました。

  ある日のこと、男はあまりに急いでいたので、鏡の部屋を出るときにドアを閉めるのを忘れてしまいました。男が家を出た後、彼の番犬の大きなドーベルマンがこの部屋の中に入りました。この番犬は鏡の部屋で自分に似た犬をたくさん見たので、彼らの臭いを嗅ごうとしました。当然ながら、何も臭いません。そのため、怒ってうなりました。そうしたところ、他のすべての犬も同じように唸るので、番犬はますます怒って彼ら全力で襲いかかりました。すると、鏡と思いきりぶつかりその痛さで吠えてしまいました。番犬は何度体当たりをして、自分の主人の家を鏡の中の犬たちから守るため、終りのない戦いを精一杯行いました。とうとう番犬は疲れ果て、鏡の部屋の中で血を吐いて死んでしまいました。

 男が家に戻ったとき、自分の番犬が鏡の部屋の中で血を吐いて死んでいることに気がつきました。男は大きなショックを受けました。この鏡の部屋をもう二度と使わないよう、部屋の入り口を壁でふさごうと決めました。しかし、一人の召使いが男に次のように勧めました。「ご主人様、この部屋を閉じてしまうよりも、開けたままにしてください。そうすれば、この部屋はみんなに大切なことを教えてくれることができるからです」。「お前が何を言っているのか、理解できない。もっと詳しく説明してくれ」男は召使いに言いました。

 「この世は、ご主人様の鏡の部屋によく似ています。自分の周囲の人々は、自分が周りに与える姿をそのまま反映しているのです。自分が幸せを示すなら、周りの人も幸せを見せます。自分が悲しいとき、人々は悲しく寂しい姿を見せます。自分が心配すれば、皆もきっと心配するでしょう。この世において私たちは絶えず自分が与えた姿と戦っています。きっと死ぬまでそうでしょう。ご主人様の鏡の部屋は、重要なことを教えているのです。何をしても、何を言っても、私たちは自分自身の美しい姿を探しているのです。だからこそ、私たちは周囲に自分自身を見せることが好きなのです。私たちは自分が褒められること、認められること、自分の意見を納得させることを好みます。なのに、私たちは人が打ち明けたいことに耳を傾けずに、自分の言いたい言葉を人に聞かせがちです。私たちは人々を、自分を写す鏡のように見ています。自分がしたいことだけを相手に投影させているのです。このようなことをしていると最後には、死に至る生き方となってしまうでしょう。ですから、ご主人様の鏡の部屋を開けたままにしてください。そして人々に自分を見せるよりも、周りにいる一人ひとりをよく見るようにさせましょう。自分の周囲から謙虚に学ぶことが肝心だと思います」召使いはそう説明しました。彼の一途で賢明な話を聞いて、男は新しい生き方を発見しました。もう一度新しく生きようと決めたのです。

 私たちが識別を持つようにと聖パウロは願っています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となるように」(フィリピ1,9-10)。また、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(1コリント15,10)とも聖パウロは言いました。自分がなりたい姿、人々に見せたい姿を一度忘れましょう。そして、自分が人々に与えられている神の賜物だと考えた方が賢明なのです。周囲の人々も、私たちのための神の賜物だということを度々思い出す方がいいのです。そうすれば、人々の失敗や、過ち、欠点にもかかわらず、自分としてありのままに生きる喜びを深く感じるでしょう。この生き方を得るために全生涯が必要かも知れませんが、チャレンジすることが肝心です。


カシの木とモミの木 

  ルーマニアの森の中央に、威厳に満ちた姿をしたカシの木がありました。このカシの木はいつも自分の自慢ばかりして、他の木々を軽蔑していました。カシの木は自分だけが立派だと自惚れて叫んでいました。森の木々はカシの木を恐れ、遠く離れた所に立っていました。ある日のこと、カシの木のすぐそばで小さなモミの木が生まれました。それを見てカシの木は驕って言いました。「ようこそ、ちびっ子ちゃん。私は森の重鎮のカシの木だ。君よりも森の事を良く知っているので、私の勧めに従えば、いつか私のように立派な木になることができよう」。モミの木は返答し「ぼくはあなたのような立派な風采をしていませんし、力もありません。おまけに、ぼくの葉は尖っていて棘があり、あなたのような美しい葉ではありません」。モミの木は悲しそうに言いました。

    「その通りだ。誰も私の美しさを越えることはできない。しかし、私の賢い勧めに従えば君もきっと自分を養い強めることができるのだ」。カシの木は偉そうに言いました。「ぼくに必要なものを、なぜご存知なのですか。お互いの気質は全く違っているのに…」とモミの木が不思議そうに尋ねました。「そんなことは問題にならん。とにかく、私の勧めを聞けば君は立派なモミの木になれるのだ」とカシの木は断言しました。「そんなの無理、無理…。あなたは季節ごとに葉の色を変えますが、ぼくは一年中緑のままです。あなたはたくさんのどんぐりの実で森の動物たちを養うことができますが、ぼくはマツの木のようにマツカサを結ぶことすらできません」。そうモミの木は答えました。

   小さなモミの木が、カシの木の意見を断ってしまったのを目にし、カシの木は頭のてっぺんから足の根の先まで身震いし始めました。毎日まいにち「ぼくはあなたと違う。」、「あなたを真似ることはできない!」、「ぼくにとって必要な物は何であるかをあなたは知らない…」、「無理なことは無理だ!」などとモミの木に言い続けられたのです。おかげでカシの木は自分が侮辱されていると思い込むようになりました。段々と自分に自信を失っていったのです。というのも、モミの木は他の木々たちとは違って、カシの木を否定する事をまったく恐れていなかったからです。今まで自信満々で傲慢であったカシの木も、段々弱くなってしまいました。威厳に満ちた姿が、いつの間にか醜くなってきました。その上、カシの木の立派な葉を秋の風が奪ってしまいました。生き生きとした緑の葉を保っているモミの木の前で、葉が無くなり裸になったカシの木はとても恥ずかしい思いをしていました。遠くに離れていた木々たちも葉を失いましたが、カシの木に励ましの言葉をかけました。「あなたは一人ではないですよ。見てごらんなさい。私たちも皆あなたと同じように葉が落ちて裸になってしまいました。私たちはすべての葉を失いましたが、春がすぐ来るという希望を失っていません。さあ、一緒に春になるまで頑張りましょう」。そう優しく誘いました。モミの木も他の木々たちと一緒に声を合わせカシの木に言いました。「ぼくはあなたとは違うけれども、あなたを尊敬し大切に思っています。あなたが幹だけになり裸になっても、あなたはぼくにとって必要です。あなたの太くて強い幹が、ぼくを風から守ってくれているからです。あなたはぼくがいつも同じ緑の姿で暮らすのが羨ましいと思っているでしょうが、あなたは春になるとまた美しい葉が出て立派な姿になりますよ」。そう励ましの言葉をモミの木が言いました。「そう、その通りだ! さあ一緒に頑張りましょう…」森の木々たちも声を一つにして大きな声で叫びました。

   冬の間にカシの木は自分への自惚れの状態を捨てて、回心と謙遜の衣を着ました。次第に希望で満たされたカシの木は、モミの木の慰めと励ましの言葉を素直に受けとるようになりました。そして春の季節が戻ってきた時、カシの木はすっかり生まれ変わりました。森の木々やモミの木の中で、もはや支配する者ではなく、周りの皆を愛する親しい仲間となりました。この友情のお陰でカシの木はもう一度美しい威厳のある木となり、周りの木々を新しい眼差しで見るようになりました。その時からルーマニアの森は魅力的になったそうです。

  私たち一人ひとりは、他の人と比べることのできない独自の特徴を持っています。生まれた場所、言葉、文化、知識、歴史が違っても、それを自慢せずに分かち合えば人生が楽しくなります。「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15,12)とイエスは勧めました。謙遜に希望をもって、この世界の人々を批判せずに見てみましょう。そして今年も、季節ごとに新しい気持ちと決意で、皆の幸せのために励まし合って頑張りましょう。


隠遁者とイノシシ

 昔アイルランドの森に隠遁者が住んでいました。彼は大自然と動物たちをとても愛していました。動物たちもこの隠遁者が好きになり、彼のそばに静かに集まることが習慣になりました。毎日隠遁者を養うために、(うずら)(きじ)(からす)など色々な鳥たちがパンや野菜や果物、必要な食べ物を運んでいました。これには理由があります。ある日隠遁者が十字架の形に腕を伸ばし、祈りながら立っていた時のことです。一羽の鶉が彼の手の中に卵を産みました。隠遁者は卵が孵化するまでずっと動かずに、腕の位置を保ちました。その日以来、鳥たちの群れは、この隠遁者の世話をしようと決めました。他にも病気の動物たちや傷ついた動物たちは、癒してもらうために隠遁者のそばに集まって来ました。

 人里離れ、朝から晩まで神に祈りながら動物に囲まれていたので、隠遁者はまるでアダムとエバのエデンの園にいるような感じがしていました。彼が住んでいる場所は、景色の綺麗なところです。山と湖が広がっています。彼は高い木と小さな川がそばを流れている洞窟を自分の住む場所に決めました。その洞窟で祈りに満ちた孤独な生活を送ることこそが、この隠遁者の幸せでした。

  ある日、野生のイノシシが隠遁者の洞窟に逃げ込んできました。犬の群れと狩人に追いかけられているようでした。殺されることを恐れたイノシシは、震えながら鳴き声で隠遁者に助けを懇願しました。すると、イノシシを追いかけていた犬の群れは、突然洞窟の前に立ち止り、横たわったままで動くことができなくなりました。なぜなら、隠遁者の祈りが力強く働いたからです。しかし狩人は、イノシシを狩ることを諦めませんでした。狩人は、銃に弾丸を装填(そうてん)しました。それを目にした隠遁者は「直ぐ止めなさい。さもないと酷い目に合うでしょう!」と叫びました。狩人が振り向くと、隠遁者の周りには数え切れないほどのスズメバチが集まっていました。隠遁者が自分と犬の群れを攻撃する準備をしていると分かり、狩人は呆然としました。恐れを感じて、犬の群れと共に逃げていきました。野生のイノシシの命は救われました。感謝の念を示すために、イノシシは隠遁者のそばで暮らすことにしました。鳥たちのやり方を真似て、イノシシは森のキノコ、栗、胡桃(くるみ)、他の食べ物などを季節ごとに隠遁者のところまで運びました。

 イノシシは隠遁者が生きている間、ずっと彼の世話をし続け、彼を守りました。隠遁者が亡くなった時には、イノシシは彼の墓を掘りました。その後、イノシシは死ぬまで墓の番人をしていました。今ではイノシシの子孫が墓を守っています。また、現在でもあらゆる種類の動物たちの墓参りは続き、隠遁者が眠る場所を花で飾り続けていると言われています。

 今年はイノシシの年です。イノシシは司祭職のシンボルです。洗礼によって司祭職に与かっている皆さんが、大自然の美しさ、動物が与える喜びや楽しい付き合いを実感できるように、また何よりもまず祈りの力と神への委ねを再発見できるようにしたいと思います。そのためには、日常生活の忙しさの中で、『神のためにだけの時間』を作るように工夫し、祈りが与える神との親密な交わりと一致を深く味わいましょう。祈りは宇宙万物と調和の中に人を一つに集めます。ですから物語の隠遁者を真似て、キリスト者の司祭職を尽くし、人々や動物をも助け、大自然を尊重し、すべてを美しくする福音的な生き方によって、神と人々の喜びの泉となりましょう。このようにすれば、今年こそ聖なる年となるに違いありません。


人間の神性

 昔、全ての人間は神のようであったとインドの古い伝説は語っています。しかし、人間は自分たちが持っていた神性を悪用にばかり使いました。それに我慢できなくなったブラーマ神は、人間から神性を奪い取り、絶対に見つけられない場所に隠そうと決心しました。ブラーマ神は、すべての神々に「その隠し場所について意見を出すように」という命令を出し、会議を招集しました。しかし、集まった神々の意見は、なかなか一致しませんでした。

 デュルガ神は「人間が持っていた神性を、地球の暗い洞窟の土に隠そう」と言いました。それに対して「ダメだ。人間は物好きで、探すことが好きなので、いつかその洞窟を見つけて土を掘ってしまう」とシヴァ神が反論しました。「それなら、海の一番深い淵に隠してはどうでしょう」とカリ神が提案しました。この提案に対しガネシュ神は「それもダメ、ダメ。いずれ人間は湖だけでなく、すべての海洋を探検するでしょう。ですからそんなところに隠しても簡単に見つけ出してしまうはずだ」と答えました。「それでは、一番高い山の頂上はどうでしょうか」とラクミッシュ神が勧めました。「それもダメだ。人間はなんでもできるし、チャレンジするのが好きだから、そこも直ぐに見つけてしまうよ」とスリヤ神が否定しました。

 しばらく神々は何も言わず、重い沈黙が続きました。すると、クリシュナ神が次のような提案を出しました。「土も、海の水もダメなら、空はどうでしょうか。人間の手が届かないところ、例えば月の何処かに隠したらいいんじゃないでしょうか」。しかし、カリ神が「それも絶対にダメです。人間は賢すぎて、きっと月に行く方法を考え出し、月の表面を歩くようになるでしょう」そう言って激しく反論しました。議論を聞いていた神々の悩みは、ますます深くなりました。

 ガンガ神は、ため息混じりに「やはり、人間の神性を隠すための安全な場所など何処にもありません。人間にその神性を返す他に方法がありませんねぇ…」と言いました。するとブラーマ神も賛同して「そうだ、そうしよう。人間が探さない場所がある。それは人間の心の奥底だよ。人間は自分の心の奥底を決して調べない。だからそこに神性を隠そう」と言いました。それを聞いたすべての神々は、全員一致してこの提案に賛成し大喜びました。

  インドの古い伝説によると、神々が人間の心の奥底に神性を隠したその時から、人間はそれを見つけるために地球の洞窟を調べたり、高い山に登ったり、海の深い淵を探査したり、月の表面を歩いたりしたそうです。しかし今に至るまで、自分の心の奥底に隠されている神性を見つけ出すことはできなかったそうです。

  シラ書はこの伝説に似ている話を紹介しています。神の知恵(神性)は天空を巡り歩き、地下の海の深みを歩き回ったが、何処へ行っても憩いの場所を見つけなかった。だから、神は人の中に住むように命令しました(参照:シラ書24,1-12)。確かに、聖書は創世記の時から神が人間にご自分の息吹を与えられたことを教えています。ですから、私たちは神性がどこにあるのかよく解かっています。私たちの人性と神性はの神であり、の完全な人間である「キリストと共に神の内に隠されている」(コロサイ3,3)ことを知っています。私たちの人性はキリストに結ばれているので、私たちはイエスの神性に与るようになりました。クリスマスを祝う私たちは、この神秘を思い起こしながら、神に感謝しましょう。言葉と行いによって、私たちに与えられたその神性を大勢の人に示しましょう。


友を求めて

  親しい友を見つけるために、若いオスの象は群れから遠く離れて深い密林に入って行きました。歩いていると小さなサルと出会いました。「サルくん。君が、僕の友だちになってくれたら、嬉しいです」と言いました。するとサルは「だめ、だめ。あなたは体が大き過ぎて、僕のように木から木へと身軽に移動することができないでしょう。あなたの大きな耳は決して翼の換わりにはなりません。」と答えました。

  次に象は、2メートルもある大きなヘビに出会いました。「ねぇ、ヘビくん。僕の友だちになってもらえないかなぁ…」と言うと、ヘビは「いくらあなたの鼻が長くて僕と似ていても、僕にとっては大き過ぎてあなたの体を抱き締めることは不可能です。おまけに、草の中を這う私はきっとあなたに踏み砕かれるでしょう。あなたの友だちになるなんて無理です」と答えました。

 寂しくなった象は、自信を無くしてフラフラと歩いていると一匹のウサギを見つけました。「ねえ、ねえ、ウサギさん。僕の友だちになりたくないですか」と尋ねました。ウサギは「とんでもないことです。あなたはあまりにも大き過ぎて、私の狭い巣穴に入ることが出来ません。あなたの食べる食物の量と私が必要とする食べ物の量は全然違います。もし、あなたと一緒に暮らせば、直ぐに大飢饉の状態になるに違いありません。と言ってウサギは象の願いを断りました。

  ウサギの巣穴の直ぐ傍にとても小さな池がありました。この池に住んでいるカエルを見て「カエルくん。君こそ、僕の親しい友になってください」と象は願いました。「だめですよ。あなたはあまりにも重過ぎて、私のように飛び跳ねることはできないでしょう、おまけに、この小さな池の水を飲んだり、池に体を入ればあっと言う間にこの池の水は干上がるでしょう。あなたは大き過ぎます。さあ、さあ、あちらへ行ってちょうだい」と忙しそうにカエルは自分の小さない池を守るために答えました。

 密林のどんな動物と出会っても、若いオスの象はどの動物からも同じ答えを受けました。彼は友だちになってくれる動物がいないので群れに帰ろうと考え始めたちょうどその時、急に密林の動物たちが恐怖で逃げまわり出しました。不思議に思った象は、逃げようとしていたオカピを呼び止めてその理由を聞きました。「大変です。猛獣のトラが誰れかれかまわずに殺そうと狙っているのです。あなたも早く逃げないと…。」と話してくれました。若いオスの象は、今こそ皆の命を救うチャンスの時だと思いました。そして猛獣のトラと出会い「僕の友だちを殺さないで!」と強い口調で言いました。するとトラは「人のことに構うな!これは俺の問題だ」。トラが自分の態度を変えるつもりがないと分かって、若いオスの象は命懸けで猛獣のトラに何度も体当たりをして、とうとうトラを追い出しました。「僕がここにいる限り、もう二度とここに来るな」と象はトラに宣告しました。若いオスの象が密林の動物たち皆の命を守ったと聞いて、動物たちは彼の傍に集って来ました。そして代表の年寄りのアリクイは「あなたは私たちの友になるために、ちょうどよい重さと大きさを持っているので、皆、喜んであなたを友として迎えます。よろしく、ね!」と宣言しました。幸せでいっぱいになった若いオスの象は、いつまでも皆を守ることを約束しました。

 「知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う」(知恵6,16)。イエス・キリストは天の栄光から離れ、この世に来られた時に友となる人を捜し求めました。しかし、人々は様々な言い訳をして「私は商売で、忙しい」「私は父が亡くなったばかりです」「あなたの教えは酷すぎて耐えられない」「あなたは悪霊に取り付かれている」などと答えてキリストの誘いを拒みました。猛獣のトラのように人々を狙っている死に打ち勝ち、全人類を守るために、イエスは命をささげました。私たちは永遠に守られているからこそ、イエスの親しい友になるのは当たり前のことではないでしょうか。キリストの愛のサイズも重さも広さも私たちにぴったりしています



王様の後継者

 年老いた王には子供がありませんでした。そこで、自分の後継者になるのに相応しい人を見つけるために、次のようなことを考えました。王は王国のすべての青年たちを宮殿の広間に集め、彼らに色々な試練を与えたのです。大勢の青年がいましたが、その中で後継者に相応しいと認められたのはたった10人でした。その10人の青年に最後の試練を王が与えました。彼らの手に一粒の小さなトウモロコシの種を渡したのです。「この国は、農業によって栄えている。私の後継者になりたい者は、土を耕すことや野菜を育てることを知るべきである。それゆえ、お前たちはこの種を家にもって帰り、植木鉢に植え、世話をせよ。3週間後に、芽を出したトウモロコシの苗を私に見せよ。一番上手くトウモロコシの種を育てた者を私の後継者としよう。」王は説明しました。

  10人の青年たちは家に帰り、言われた通り植木鉢にトウモロコシの種を植えました。ところが、ある青年はいくら丁寧に種の世話をしても、トウモロコシの芽が出てきませんでした。それを見ていた近所の友だちが、「芽が出ないのはきっとこの種が悪いからじゃないかい。トウモロコシの種はみんな似ているから、他の種と変えても誰も分からないだろう。」と不正をすることを勧めました。しかし、この青年は正直だったので、友だちの言うことに耳を傾けませんでした。「王様が私にくださったのと違う種を育てるなら、私は王様を騙すことになります。3週間後にどうなるかは分かりませんが、私は王様からもらった種を育て続けます。」と青年はきっぱり言いました。

 3週間。10人の青年たちは宮殿に集まりました。青年たちのうち9人は、芽の出ているトウモロコシの苗を自慢しながら王様に見せました。王は頭を振りながらトウモロコシの苗をゆっくり見回しました。「これらは私がお前たちに与えたトウモロコシの種を育てて出た芽か?」と王様が聞くと、9人の青年たちは「はい、そうです。王様。」と答えました。王様は10番目の青年のところにやって来ました。ところが、この青年はただ土を入れた植木鉢だけを持っていたので、恥ずかしくなって震えていました。きっと王様は怒って、自分を宮殿の牢屋に入れるだろうと思っていたからです。「お前は私が与えた種を、どのように育てたのか?」王様が尋ねると「僕は、毎日、丁寧に世話をして、肥料を与え、よい空気に当たるようにしましたが、このトウモロコシの種はなかなか芽を出しませんでした。」青年は震えながら答えました。そう聞いた王様は、右の手を高く上げ、王国の民に暫く静かにするように言いました。

 「王国の民よ。ここに皆に相応しい次の王がいらっしゃる。私は10人の青年に茹でたトウモロコシの種を与えたのだ。この種からは絶対に芽は出てこないはずだ。ところが、この9人の青年たちは、他の種と入れ替えて私を騙そうとした。彼らは王になるには相応しくない。王に必要なのは実直さと誠実さである。王は真理に基づいて国を支配すべき存在であるからだ。この青年は王に必要な実直さと誠実さを持っている。したがって、私の後継者に選び、皆の王になる事をここに決定する。この喜びを大いに祝おうではないか。」と王様は断言しました。誰が王になるか首を長くして待っていた国民は、選ばれた青年に温かい握手で祝意を表しました。

 「目的は手段を正当化する」と言われています。この世で成功するために人々は、実直さと誠実さを無視する傾向を持っています。「正直な人は幸せを継ぐ」(参照:箴言28,10)、また「正義は正しい道を歩む人を守る」(箴言13,6)と箴言が教えています。「目的は手段を正当化する」と思って人を騙す人は、結局自分自身を騙し軽んじています。洗礼によって真理の霊を受けた私たちは、模範的な者として正直に生き、誠実に行い生きていきまし


侮辱のプレゼント

 あるところに年老いた座禅の先生がいました。何でも我慢強く耐えることが遠くまで知られていました。いつも淡々とし、どんな人間も、どんな思いがけない出来事も、災いも全く恐れていませんでした。この先生には、たくさんの弟子がいました。先生は彼らに「どのようにして自分を自制するのか」、「冷静さを保つためには、どうすればよいのか」などを教えていました。

 ある日、この先生の評判と名声を損なわせようと無頓着で無謀な青年兵がやって来ました。この青年兵は酷く無礼な言い方で人を傷つけることで有名でした。彼は人の弱さと欠点を攻撃し、評判を損なわせるのが上手でした。この青年兵は、座禅の先生をそそのかすために、大声で先生を侮辱し始めました。弟子たちは先生を守るために傍へ集まって来ました。すると先生は青年兵を誘って言いました。「それじゃあ、町の広場に行こう。大勢の人の前で私を侮辱した方がいいでしょう。そうだ、それじゃあ、明日、町の広場に行こう」青年兵は先生の誘いに乗ることにしました。青年兵は、心の中で「ようし、そうしよう。これは面白くなるぞ…」と思いました。

 次の日、先生と青年兵の戦いの結果を見るために、町の広場に大勢の人が集まりました。朝から夜遅くまで青年兵が先生につばを吐きかけたり、公園の砂や小石を投げたり、先生の先祖や友人たちの悪口を言ったり、その他考えられないような侮辱やののしりを言い続けました。しかし、先生は絶対に口論しませんでした。青年兵が侮辱する間中、ずっと冷静な態度を示し、落ち着き払っていました。そうするうちに青年兵は、群衆から野次を浴びて、段々と恥ずかしくなってきました。結局、皆の前で自分の失敗を認め、頭を下げて逃げてしまいました。群衆は座禅の先生を大いにほめたたえました。

 弟子の一人が先生に近寄って、次のように尋ねました。「先生はどうして何も反抗せずに、何一つ怒りの態度も示さず、この酷い侮辱に堪えることができたのですか。なぜ自分の先祖や友人たちの評判を守るために弁明しないで、何も言わなかったのですか」。先生は質問で答えました。「あなたに捧げられたプレゼントを貰いたくないなら、このプレゼントはいったい誰のものですか」。「プレゼントを捧げた人のものです」と弟子は答えました。「はい。その通りです。同じように受け入れたくない侮辱や罵りや悪口も、それを言った人のものです。なぜなら、その人は心の中でずっとそのすべての悪いものを持っているからです」と先生は説明しました。

 侮辱される時、あるいは悪口の的になる時、私たちは無意識に強く反応したり、怒ったり、復讐したりしがちです。ですが、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(参照:ローマ12,21)と聖パウロは勧めています。悪に対する冷静な態度や自制する努力が必ず良い実を結びます。怒りは悪を拡大する危険性をもたらします。だからこそ、怒りと憤りを抑えることが大切なのです。「怒ることがあっても、悪魔にすきを与えてはなりません」(参照:エフェソ4,27)ということも聖パウロは勧めています。冷静を保ち、自制しましょう。私たちを攻撃する悪い言葉や無礼な行いに対してはそれを受け取らず、無視をし、差し出した人に返すことを学びましょう。そして主イエスが教えたように、「敵を愛し、私たちを憎む者に親切にしましょう。悪口を言う者に祝福を祈り、私たちを侮辱する者のために祈りましょう」(参照:ルカ6,27-28)。








トップページに戻ります

2022おrぢ13−22.htmlへのリンク